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『法華経』メモ「方便品」

2019-02-09 23:10:44 | Weblog

2月9日(土)曇り夕方より雪【『法華経』メモ「方便品」』】

今日は寒かったですね。夜のうちに雪が積もるかと思っていましたが、うっすらと雪が土の上に被っていた程度で助かりました。今日は納骨がありましたので、昨日からの天気予報ではかなり積もるのではないかと心配していました。無事につとめることができました。しかし、夕方より雪は深々と降っています。

このところ、古い過去帳の清書につとめています。先代からお預かりした過去帳がぼろぼろになりつつありますので、すべて書き改めています。住職になってから五年を過ぎまして、檀家さんの一軒一軒についてよく分かってきたときですので、丁度よい頃合いだと思っています。

書き改める前は、各家の石塔からはわからなかったのですが、各家にも戦死なさっている人が随分多くいたことがわかりました。戦争が終わって73年、区切りの年には関係なく、今年は特に戦死してしまった方々のご供養をさせていただこうと思っています。

さて、表題の『法華経』メモですが、今日は「方便品」第二について少し考えてみたいと思います。「方便品」には声聞乗や独覚(縁覚)乗や菩薩乗の三乗は方便であり、真実には一仏乗しか存在しないと説かれる。「十方仏土の中には、唯一乗の法のみ有り。二無く亦三無し。」と。ただ方便力によって三乗を説いたのだと開示されている。

まだ声聞の一人である舎利弗に対してこの品は説かれている。また三乗の者たちも、必ず仏となることが説かれているのだが、もう悟っていると考え違いをしている増上慢の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷たち五千人が、釈尊の法座から立ち去るのである。

しかし、「慚愧清浄にして仏道に志求する者有らば、当に是くの如き等の為に、広く一乗の道を讃むべし。」ここを植木雅俊先生の現代語訳は次のように訳されている。「慚愧の念を持ち、清らかであり、また最も勝れた最高の覚り(菩提)[の獲得]へと出で立っているところの衆生たち、それら[の衆生たち]のために私は、畏れなきものとなって、一つの乗り物(一乗)についての限りない讃嘆を説くのだ。」(『梵漢和対照・現代語訳『法華経』上131頁)

そうして、「方便品」最後にも、「汝等、既已に諸仏の随宜方便の事を知りぬ。復、諸々の疑惑無く、心に大歓喜を生じて、自ら当に作仏すべしと知れ」この最後の個所を植木雅俊先生は次のように現代語訳されている。「だからこそ、世間[の人々]の教師であり、保護者であるブッダたちの深い意味が込められた言葉を知って、疑惑を捨て、疑念を取り除くならば、あなたがたは、ブッダとなるであろう。[だから]あなたがたは歓喜を生じなさい」と。(同133頁)この個所の漢訳は、「歓喜を生じて」とするよりは「歓喜を生ぜよ。」とした方がよいか。

釈尊の教えを信じる者は、すべてブッダとなることが説かれているところの大事な章であることがわかる。今私の手元には、『法華経』を信奉しているR会、K教団、S学会の経本があるが、同じように「方便品」の最初が出されている。

辛嶋先生の講演によると、この「方便品」の後半と、「譬喩品」の偈頌は、『法華経』の核であり、それと「方便品」から「授学無学人記品」までのトゥリシュトゥブ・ジャガティーという韻律の偈頌が『法華経』の最古層であり、大乗仏教の最古層といえる、ということでした。紀元前一世紀、東インドあるいはインド南東部で成立した、ということです。「方便品」から「授学無学人記品」までの散文とシュローカという韻律の部分は紀元後一、二世紀ガンダーラ地方で作成されたということです。一つの「品」(章)の偈頌と散文が別々に成立して、一つの「品」になっているということは面白いですね。*トゥリシュトゥブ・ジャガティーという韻律の偈頌とシュローカという韻律については、宿題にさせてください。

*シュローカ (śloka) とは、インドの伝統的な詩節ガーター)の形式のひとつで、8音節からなる句(パーダ[1])を4つ並べた32音節から構成される。サンスクリットプラークリットによるインド古典詩の韻律においてもっとも一般的に使われ、ラーマーヤナマハーバーラタのような叙事詩でも主に使われる。 (wikipediaよりの引用です。)

ちょっと長くなりまして失礼いたしました。

(雪はまだ深々と降り続いています、が、まだそれほど積もっているほどではありません。明朝やいかに。)

 

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