Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

岩本町の和泉橋で、鳥に餌をやる女性を撮る

2006年12月16日 17時49分52秒 | Journal
 秋葉原の地下道を外へ出て、神田川にかかる和泉橋を渡ろうとして、鳥に餌をやる女性を撮った。
 ここ岩本町界隈は、神田川の土手に柳並木があったことから「柳原土手」と呼ばれた。なんでも、太田道灌が鬼門除けに稲荷を祀り、土手に柳を植えたのだとか。江戸時代の後期には、土手の周辺に古着を扱う露天が集まった。明治に入ると400軒もの古着屋が軒をつらね、岩本町古着市場を形成したのだとも。そういえば、裏通りへ入れば、今でも繊維関係の店や問屋が多いような気がする。写真の女性も、そうした古着屋の末裔かもしれぬ。
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殺人手配者・小池俊一

2006年12月16日 17時30分23秒 | Journal
 日比谷線の秋葉原を出て、地下道を歩いていると、普段はそうも注意がいかない指名手配のポスターに目が止った。この小池なる手配者とそっくりな人を知っているのだ。ただ、その人は、確実に犯人ではない、と思うから、「あ、似てる、110番」とはいかない。しかし、よく似ているな。
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八木アンテナ(NHK放送博物館)

2006年12月16日 15時03分15秒 | note 「風雅のブリキ缶」
 1925年(大正14年)、この愛宕山から日本で初めてラジオ放送が流れた。それを記念して昭和31年に開館したNHK放送博物館には、アンティークかつ歴史の場面場面に出てくるマイクロフォンやカメラなどなど、慥かに、放送に関する逸品が展示してある。
 小生が、館に入って最初に出合ったのは、以下のように、作品にも取り上げた「八木アンテナ」。

 ――アメリカ育ちだが、戦前のニッポンで高等教育も受けた「帰米」のナカムラ教授は、トウホク大学のオカベ・キンジロウ(岡部金次郎、後に阪大教授)博士が発明したマイクロ波発振管「マグネトロン」を研究したと物語ではなっていました。マグネトロンは、マイクロ波を発生させる真空管(vacuum tube)ですが、電界と磁界を組み合わせた構造となっており、電子を真空中で螺旋(らせん;spiral)運動させます。

 1927年、実験演習を担当していたオカベ博士のもとに来た一人の学生が、真空管を使った実験で、本来ならばゼロになるはずの電流が途中でまた増える、とデータを見せました。この実験データについて、オカベ博士は、極超短波アンテナ(1926年)の研究開発者として知られる恩師のヤギ・シュウジ(八木秀二)教授と議論し、真空管から非常に短い波長の電波(radio wave)が発生しているのだ、と推測するに至ったのです。

 日米の戦争が激しくなった1943年、出撃する飛行機が常に敵機の待ち伏せに遭(あ)うという事態に至り、ニッポンの連合艦隊は、南太平洋の制空権(command of the air)を完全にアメリカ側に奪われてしまいました。たまたまシンガポールで、イギリス製地上用対空電波警戒機(レーダー;radar)を捕獲したニッポン軍は、そこに「YAGI ARRAY」と書かれていることに気がつき、これは何だとなったのです。陸軍研究所、それに、民間電機メーカーの技師が動員され、いわゆる、「八木アンテナ」であることが判明しました。
 イギリスでは、ヤギ教授らの研究を受けて、マルコーニ社が1920年代後半には早くも商品化していたのですが、ニッポンでは、1935年頃に、海軍研究所の技師が、レーダーの研究開発を上層部に進言したことはあったのですが、「闇夜に提灯をともす」研究よりは、兵の訓練が大事と却下(reject)されました。また、商工省が「重要な発明と認め難い」と特許期限延長を1941年に却下したといいます。

 八木アンテナは、戦後ニッポンの高度経済成長期の街風景の典型ともなった、あの家々の屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナに適用されることになりました。
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ひょっこりひょうたん島

2006年12月16日 11時53分25秒 | Journal
 NHK放送博物館にあった、この「ひょっこりひょうたん島」も懐かしい。これが放送されたのは、小生が中学生にさしかかったころだ。特に思い出深いのは、命がロウソクの火になって見える話。自分の寿命をロウソクの長さに見てしまい、風前の灯にもうじき死ぬと主人公が慌てたり、こっそり命の長さを継ぎ足そうとするところは、切なくてリアリティーがあった。自殺する中学生が最近多いが、それだけ命というものに切実な思い入れがあるのが、あの年齢なのだろう。それも数十年もたてば、なんとなく惰性で生きることを余儀なくされる。
 なお、写真に、ダンディの姿がないのが、ちと淋しい。
 *参考:原作:井上ひさし、山元護久
     アニメーション:久里洋二
     人形劇:ひとみ座
     人形デザイン:片岡昌
     演出:雪正一
     音楽:宇野誠一郎
 *ストーリー:ひょうたん島に子供たちとサンデー先生が遠足に行ったところ、ひょうたん火山の噴火活動の結果、島が流れ出してしまう。子供たちとサンデー先生はこの島で暮らし始めるが、島には次々とへんてこな人が訪れ、またひょうたん島も奇妙奇天烈な所に流れ着いて事件が起きるというもの。
 小生の作品に、「瓢箪ビル」というのが登場することになっているが、あるいは、ひょうっこりひょうたん島の島影が頭の片隅にあるのかもしれない。
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三びきのこぶた

2006年12月16日 11時29分24秒 | Journal
 小生が幼稚園のころだから古いが、「三びきのこぶた」という子供番組(白黒)がNHKで流れていた。家でも見たのだろうが、幼稚園でも皆と見た記憶が残る。こぶた三匹とこぶたを食べてやろうという狼のやりとりが劇になっていたのだが、委細はいっさい忘れてしまった。いま調べると、原作はイギリスの昔話のようだ。その昔話はかなり怖い話である。
 ――お母さんから、一人で食べていくようにいわれた3匹のこぶたたちでしたが、2匹は、わらの家と木の枝の家をオオカミに吹き飛ばされて食べられてしまいます。3匹目のこぶたのレンガの家を吹き飛ばせなかったオオカミは、このこぶたも食べてやろうと、カブ畑やリンゴとりやおまつりに誘い出しますが、どうしても捕まえることができません。反対にこぶたはオオカミをやっつけて、晩御飯に食べてしまいました。

 昔、小生の母親が、やはりこの番組を見ていて、人間が入ったぬいぐるみだとは知らず、ずいぶん精巧な「人間のように動く人形」だといつも感心して眺めていたそうである。
 写真の三びきのこぶたは、愛宕山のNHK放送博物館に展示されていたもの。
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おみくじに爪を研ぐ白猫(愛宕神社)

2006年12月16日 11時20分40秒 | Journal
 愛宕神社の境内には、白猫がおわす。
 猫だから、もったいぶった仕草が多い。
 この猫は、500円で買った小達磨に入った「小吉」のおみくじをくくりつけた小生を見ていて、わざわざ爪を立てに来た。
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愛宕神社境内から撮った愛宕グリーンヒルズ

2006年12月16日 11時08分52秒 | Journal
 愛宕神社の境内は、こじんまりしているが、なぜか岸辺に小船を横たえた、鯉がたくさん泳ぐ池もあり、今の季節はその池を囲む紅葉もなかなか奇麗である。その紅葉ごしに愛宕グリーンヒルズが見えた。

 Wikipediaによれば、愛宕グリーンヒルズとは、森ビル株式会社が管理し、愛宕山の自然、伝統、文化と融合をコンセプトとするオフィスと住宅を備えた愛宕MORIタワー(オフィス棟)と愛宕フォレストタワー(住居棟)からなる。2001年竣工。青松寺を挟み立つツイン高層ビルである。東京都港区愛宕二丁目にある。通称愛宕ヒルズ。かつてボーダフォン日本法人の本社があった。
 曹洞宗青松寺と隣接していることに因み、仏教的な蓮の花を模したシンボリックな外観は、世界的な建築家シーザー・ペリ率いるCesarpelli&Associatesがデザイン監修した。
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愛宕山から眺めた江戸

2006年12月16日 10時58分45秒 | Journal
 愛宕神社に10円の賽銭で幸運を祈った。
 賽銭箱の脇に置いてあった紙切れに、正月七午前十一時から正午迄、芝愛宕神社、新春七草厄祓い火焚き祭として、「平九郎ゆかりの出世の石段を初登り、小高い丘から国見をし、商売繁昌招運の行事の后厄祓いの神木(願木)を神前に納め、お火焚きお火渡りで厄を祓い、七草粥を戴いて無病息災を願います」とあった。なんとなく、自分も厄祓いが必要な気になった。
 写真は、その国見。フェリクス・ベアトなるイギリスの旅行写真家が、1865年に、この愛宕山から撮った江戸の写真である(NHK放送博物館にパノラマ写真がある、その一部分を再撮影)。ベアト氏は、明治維新後の近代化を迎える東京の街にカメラを向けることはなかったそうである。なぜか、写真の火の見櫓が、小生の郷愁を誘う。
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蕪村の句に詠まれた京都の愛宕山の愛宕神社について

2006年12月16日 10時42分30秒 | Journal
 薮(やぶ)いりやよそ目ながらの愛宕山  蕪村

と蕪村に詠まれた京都の愛宕山にあった本家・愛宕神社だが、こちらも由緒はなかなかだ。(注意、写真は東京の愛宕神社)
 Wikipediaに――京都市右京区の神社である。山城・丹波国境の愛宕山(標高924メートル)山頂にある。式内社で、旧社格は府社。全国約900社の愛宕神社の総本社である。旧称阿多古神社、通称 愛宕さん。古くより比叡山と共に信仰を集めた。古くから火伏せ・防火に霊験のある神社として知られる。3歳までに参拝すると一生火事に遭わないと言われる。上方落語に「愛宕山」がある。「火廼要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は京都のほとんどの家庭の台所に貼られており、飲食店の厨房や会社の茶室などにも貼られていることが多い。

 由来は、多くの生々しい歴史を語っている。大宝年間(701年-704年)に、修験道の祖とされる役小角と白山の開祖として知られる泰澄によって創建され、天応元年(781年)に慶俊僧都によって中興され、和気清麻呂が愛宕山に愛宕大権現を祀る白雲寺を建立したと伝える。9世紀には神仏習合の修験道の道場となっており、本殿に愛宕大権現の本地仏である勝軍地蔵、奥の院(現在の若宮)に愛宕山の天狗の太郎坊を祀っていた。
 平安時代に近衛天皇が亡くなった後に、院政を行っていた鳥羽法皇が天皇の甥である重仁親王を擁立しようとしたところ、親王の父である崇徳上皇が藤原頼長に命じて愛宕神社で呪詛を行わせて天皇を呪い殺したという噂が広まり、これに激怒した法皇は重仁親王の代わりに後白河天皇を即位させ、これがきっかけに保元の乱が発生したとされている。
 天正10年(1582年)5月、明智光秀は戦勝祈願のために愛宕神社に参蘢し、本能寺の織田信長を攻めるかどうかを占うため籤を引き、3度の凶の後、4度目に吉を引いたという。翌日、同神社で連歌の会を催し、その冒頭に「時は今 あめが下しる 五月哉」と決意を秘めた歌を詠んだ。
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愛宕神社の由来

2006年12月16日 10時35分34秒 | Journal
 ともかく、坂を上ると、神社がある。小さい社殿だが、それなりに風格はある。
 この愛宕神社(あたごじんじゃ)は、1603年(慶長8年)、徳川家康の命により江戸の防火のために創建され、家康が信仰した勝軍地蔵菩薩も祀る。Wikipediaに――山手線内では珍しい山である愛宕山(標高26メートル)山頂にある。京都の愛宕神社が総本社ではあるが、全国各地の愛宕神社は江戸時代にこの東京の愛宕神社から勧進した物が多いため、東京の愛宕神社は京都の愛宕神社と同格としているのだとか。
 「天下取りの神」「勝利の神」としても知られ、各藩武士たちは地元へ祭神の分霊を持ち帰り各地で愛宕神社を祀った。桜田門外の変で井伊直弼を襲った水戸藩の浪士達もここで成功を祈願してから江戸城へ向かったと言う。
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