先日、冬の花を撮った際のもう一枚の写真である。あとから出来栄えを眺めて、思わず「天真に咲く」とつぶやいた。
「大愚」と号した良寛の詩に、次のものがある。40歳から59歳まで、良寛が五合庵に暮らした20年足らず(1797年~1816年)の晩期に、書いたものらしい。
生涯懶立身 (生涯、立身出世にものぐさであり)
騰々任天真 (うとうととして、あるがままの天真に任す)
嚢中三升米 (嚢中には托鉢で得た三升の米がある)
炉邊一束薪 (囲炉裏のそばに一束の薪がある)
誰問迷悟跡 (誰が問わん、迷いや悟りの証拠を)
何知名利塵 (何ぞ知らん 名利の塵あくたのことなぞ)
夜雨草庵裡 (夜雨、草庵の内に)
雙脚等間伸 (二本の足を等閑に伸ばしているだけだ)
良寛の父親は、出雲崎の名主・橘屋こと山本左門泰雄、一茶とも交わりがあり、俳号を以南(いなん)といったが、良寛が38歳のとき、京都の桂川に身を投げて60歳の生涯を閉じた。養子だった彼は、隣村の名主との勢力争いに負け、名主役を次男に譲り(長男は良寛)、俳諧風流にすねて旅に出た末に、自殺した、中には自殺に見せかけて高野山に入ったのだとの説もある。以南の遺著は『天真録』と名づけられている。立身出世の競争に破れて自死に到った父親を思いながら、良寛が上掲の詩を詠んだ可能性がある。
さて、そうした詩の気分をそのまま昼の青空に向かって大きく具現しているのが、写真の天上の花である。そういえば、名書家として知られた良寛は、高名な人物からの書の依頼は断る傾向があったが、子ども達から凧に文字を書いて欲しいと頼まれた時には喜んで「天上大風」(てんじょうたいふう)の字を書いたとかで、現在も、その凧は残っている。
ところでまた、晩年の漱石は、良寛の書をしきりに欲しがったそうである。「則天去私」に通じる良寛の心持に憧れがあったのであろう。唐木順三が『良寛』に触れているが、漱石が50歳で亡くなる大正5年12月9日の20数日前に作った漢詩に「大愚到り難く、志成り難し。五十の春秋、瞬息の程(以下略)」というのがあった。小生もまた、おこがましいが、同感の至りである。
「大愚」と号した良寛の詩に、次のものがある。40歳から59歳まで、良寛が五合庵に暮らした20年足らず(1797年~1816年)の晩期に、書いたものらしい。
生涯懶立身 (生涯、立身出世にものぐさであり)
騰々任天真 (うとうととして、あるがままの天真に任す)
嚢中三升米 (嚢中には托鉢で得た三升の米がある)
炉邊一束薪 (囲炉裏のそばに一束の薪がある)
誰問迷悟跡 (誰が問わん、迷いや悟りの証拠を)
何知名利塵 (何ぞ知らん 名利の塵あくたのことなぞ)
夜雨草庵裡 (夜雨、草庵の内に)
雙脚等間伸 (二本の足を等閑に伸ばしているだけだ)
良寛の父親は、出雲崎の名主・橘屋こと山本左門泰雄、一茶とも交わりがあり、俳号を以南(いなん)といったが、良寛が38歳のとき、京都の桂川に身を投げて60歳の生涯を閉じた。養子だった彼は、隣村の名主との勢力争いに負け、名主役を次男に譲り(長男は良寛)、俳諧風流にすねて旅に出た末に、自殺した、中には自殺に見せかけて高野山に入ったのだとの説もある。以南の遺著は『天真録』と名づけられている。立身出世の競争に破れて自死に到った父親を思いながら、良寛が上掲の詩を詠んだ可能性がある。
さて、そうした詩の気分をそのまま昼の青空に向かって大きく具現しているのが、写真の天上の花である。そういえば、名書家として知られた良寛は、高名な人物からの書の依頼は断る傾向があったが、子ども達から凧に文字を書いて欲しいと頼まれた時には喜んで「天上大風」(てんじょうたいふう)の字を書いたとかで、現在も、その凧は残っている。
ところでまた、晩年の漱石は、良寛の書をしきりに欲しがったそうである。「則天去私」に通じる良寛の心持に憧れがあったのであろう。唐木順三が『良寛』に触れているが、漱石が50歳で亡くなる大正5年12月9日の20数日前に作った漢詩に「大愚到り難く、志成り難し。五十の春秋、瞬息の程(以下略)」というのがあった。小生もまた、おこがましいが、同感の至りである。