Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

日本橋の小網神社

2006年12月02日 18時48分22秒 | Journal
 水天宮から人形町経由で茅場町方面へ戻る途中、小網町にて小網神社という小さな神社を見つけた。地価の高いこの辺りを物語るように三角地にぎゅうぎゅうに詰めて建てられている。来た道から、提灯がたくさんかかっているのがまず目を惹いた。近づくと、五角形の小さな神楽殿も、特徴的だ。こんな小さなところで神楽ができるのであろうかと見まわしながら思った。また小網という町名の由来については、諸説あり。

 神社のHPと掲示板にあった社伝によれば、文正元年(1466年)悪疫鎮静の神として鎮座。もとは、小網山万福寺の別当寺として、室町時代中期に祀られた稲荷社が起源。太田道灌の崇敬篤く、社名も公が名づけたといわれる。社伝には、明治初期の神仏分離令で稲荷社が小網神社に改称され、現在地を社地に定めたとあるが。
 宮元小網町の名は神社にちなんで定められたとも。ご神徳は、現在の日本橋地区の繁栄が示す通り、社運隆昌・商売繁昌と、明治期以後の戦時期に当神社の神守を身につけて戦地へのぞむ者すべてが、無事帰国したことから強運厄除の信仰がおこり、現在ますます盛んになったという(?)。
 正月初詣・大祭(5月28日)・東京銭洗い辨財天大祭(10月28日)・東京下町の奇祭どぶろく祭(11月28日)は特に賑わう。現社殿と神楽殿は、尾洲総檜造りで、重厚な彫刻が施され、中央区文化財。

 ところで、あるHPによれば、ここ小網町、「昔は」という話がすぐ出るほど終戦後の市街の改造にあって四分五裂して、昔の面影を語ることが出来ないほどの変りようを見せているのだとか。小網町に限らず、日本橋のこの一帯は、町名が入り組んで分からない。兜町、茅場町、小網町、蛎殻町と、ちょっと歩くと町名が変わっている。
 小網町は、昭和51年住居表示実施により、旧来の小網町1・2・3町を合せて日本橋小網町となった。江戸時代、ごく初期の頃は「番匠町」といったというが、小網町となったのはいつ頃かはよく判らないらしい。小網稲荷というのがあって、それをとって小網町としたという説(上記)もある。
 しかし、名の通り、河岸とか入江とかいった場所が多かったことは慥かだ。小網町の漁師たちが、家康入国後、葛西方面へ出かけた時、網をひいて見せ、肴御用を命ぜられ、白魚献上の特権を得、外濠内での夜猟のあと、明け方、引きあげてくると、小網町1丁目の町角に網を一張干しておくのが慣例だったという。享保になって、白魚屋敷を拝領したのも、ここの漁師達の子孫で、佃島の人達とは別な特典をもっていたといわれる。(「管園心おぼえ」より)
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なさけありまの水天宮

2006年12月02日 18時39分51秒 | Journal
 水天宮については、以前にもその由来などを紹介した。
 今回は、前を通りかかったので、階段をのぼって、境内へ入る。赤子を抱いた夫婦に写真撮影を頼まれる。
 「なさけありまの水天宮」とは、どこかで聞き覚えがあったが、意味不明。
 なんでも、今の人形町の水天宮に移る前、文政元年(1818年)江戸三田赤羽の有馬藩邸に有馬頼徳公が領地久留米水天宮の御分社を神主に命じて建てたのがはじまりとか。藩邸内の神社のため、一般の人の参拝は出来なかったが、塀越しに賽銭を投げ込む人が後を絶たなかったため、毎月五日の縁日に限り藩邸を開放して参拝を許可した。人々は参拝を許してくれた有馬家と水天宮をかけて「なさけありまの水天宮」という洒落言葉を口々に言い、当時の流行言葉にもなったという。
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