「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

長野しし踊り

2007-05-06 15:19:29 | 郷土芸能
●長野しし踊り●                    

 小友町国道107号線沿いにある厳島神社(例祭8月最終日曜日)境内にある獅子踊供養塔。(元々は西来院参道にあったもの)ここは、長野しし踊りの地。

                 

【 由来】 

 獅子の創めは、聖武天皇の時代なり。聖武天皇御后御病気に付き医者にかけたけれども効なく、よって日本に有名なる易者を掛け、易の占いに獅子の孕み子を用ゆれば、その効あるべしとて、是より奈良の三笠山の獅子の巻狩りを催したれば、四方より雲出で、惣ち雷神遊び、その内に一匹狩取り、帰りを催したれば、大雨降り、是を象りて、踊りの拍子の第一番を鳴神という。次に獅子を担ぐ時肩を入れて、肩入葉と云う。其の次に足が走って膝を立てる故に膝立と云う。此の二人にて及ばざるにて、四人持と直し、其れにて四ツ入葉と云う。此の四人にて及ばざるにては、八人に直し、其れにて八ツ入葉と云う。此れを象りて踊りの通りは五つに限るなり。其のお城に帰りの時刻に晴天となり、宝山という山の松の陰より半月出て、それを見て半月踊りと云う。御帰りになりてより、獅子の腹を割りて見れば、腹子あり。この腹子を御后様に服用すれば、惣然全快と相成り、其の処で御后様の申すには、例え動物といえども命の父母たり。就いては獅子を神に祭りたしとて、天竺の白山堂に御獅子神を祀り、其の節東山奥玉の生れ、東山奥丸と云う人御所に奉公の時なり。此の御方記念として始めたる踊りなり。この聖武天皇より宝山半月踊と云う名称賜りて、故郷に帰りて再びはじめ、其れより伝えしは、東山大原長泉寺より興庵篤隆と云う和尚、長野西来院を開創せしが、この時東山五書と云う友を一人連れて来たり、慶長ニ年(1597)の歳東山五書長野に教え、子孫繁栄と踊り伝えたるものなり。

                 

 ●記録●

 ・寛保2年(1742)~「獅子一吼百獣脳列」の石碑建立
 ・弘化3年(1846)~「獅子踊供養塔」の石碑建立
 ・安政3年(1856)~南部公より蛇の目の紋、幕5枚を賜る

 江刺市の鹿踊りでは、踊手が踊りを習得した際に「南無阿弥陀仏」と刻まれた石造りの鹿踊供養塔を建立する。東山町行山流大木鹿踊は文化7年(1810)に大原村の山口から伝えられたもので、伊達公から紋章を賜っており、供養塔が2基建立されている。宮城県の旧志津川町の水戸辺には鹿踊供養塔があり、元禄年間(1688~1704)には踊られていた。また、気仙地方の多くは「行山流」を名乗り、伊達家の家紋のひとつである「九曜紋」を用いる。等々。

 供養塔の多くは旧伊達領にあり、その多くは、行山流・金津流・春日流を名乗っているが、遠野のしし踊りは、○○流とは云わない。

 さて、長野に伝えた東山五書は和尚と共に大原から来ているが、その系統とすれば、現在、県南部に伝わる太鼓系しし踊ということになる。また、同様のしし踊りだとすれば、ししの人数は6人から12人の構成になるが、南部公から賜った幕は5枚で、何故、半端な枚数だったのか不思議である。(神明八幡御祭禮江太神楽相勤候事附り鹿踊之事には、しし踊の衣装が古くなったので上様(遠野南部公)にお願いしていることから、その時に、長野でも衣装を頂戴したものと思うが)また、紋が向い鶴ではなく、何故、蛇の目だったのか?早池峰系では剣九曜を用い、上郷の一部・駒木は九曜、青笹の中下ではかつて熊野を用いていたが、ばらばらである。南部氏も九曜紋を用いてはいるが、その真相はいかに?
 
 ついでにもうひとつ、駒木の角助がしし踊(旧事記では鹿踊りと記述)を習い覚えたのは熊野参詣に行った際の京都とある。

 最後に、大原から伝わったとすれば、常堅寺の末寺にもしし踊が同様に伝わったものと思う。末寺:光岸寺、曹源寺、慶雲寺、喜清院、西来院、徳昌寺と土淵、青笹、上郷、小友、附馬牛ということになる。綾織しし踊りは葛西系金成から伝承されたとの説がある。残るは、駒木と鱒沢しし踊りになるが、駒木については、掛川から踊りに関連するものの一部を取り入れたのではとの伝承もあり、上記、葛西系ルートから伝承されたしし踊りを現在のしし踊りに劇的に改良した元祖ではないかと考える。鱒沢は、小友の流れか不明。                 
                  
                 

 供養塔から、しし踊に関して感じたるままを一字一句気にもせず、書きたり。百花繚乱の遠野の春。


                   
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14 コメント

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一度に (一如)
2007-05-08 12:47:25
 いっきに書き上げた という感じですね。
三笠山が出てきたのでどっきりでした、課題のひとつなんで。狩猟と伐採が禁止される前の出来事だったのですね。自分データ(あてにならないデータだが・・・)とつじつまが合わず、ちと調べました。
 さて、九曜紋。南部家の裏紋と聞いていましたが、理由を知りません。蛇の目紋、私の目は節穴でしたねぇ、あれだけ紋を気をつけてみていたつもりだったのに気がつきませんでした。蛇の目紋は智恩寺で見ましたよ、加藤清正がなんたらかんたら・・・あっぁ~記憶喪失(悔)。それは、ご祈祷のところにあり、妙見様の隣に柘榴の模様があったことから色々聞かせていただきましたが、よくおぼえていなかった(涙)今度聞くときはメモしよう。
謂れ (笛吹童子)
2007-05-08 13:22:28
  一如さん:
 長野しし踊りの由緒をみると、東山五書が伝えたということを、これだけ長々と前置しており、和尚さんか誰かが書き上げた文章という感じがします。中をみると現在の踊りの内容とは違った中身になっているような気がします。(踊りの種類が5つに限られていたようなので。)
 また、鹿を解体した人物と陸奥の東山奥丸との関連の有無、白山堂を持ち出した理由など、様々な視点からも興味ある由緒だと思っています。
それにしても (一如)
2007-05-08 21:16:49
 奥玉ですかぁ。ん~~ん、早池峰妙泉寺か早池峰神社かに奥玉の人たちが関係があった気が…
文書の再確認 (笛吹童子)
2007-05-08 22:32:54
  一如さん:
 東山の奥玉がどのあたりかも調べていませんが、妙泉寺関連の同様の地名が出てくるとすれば、再確認が必要ですね。
本家厳島神社 (宝飯爺)
2007-05-08 23:53:38
安芸の宮島の厳島神社に参拝したのはかれこれ
10年ほど前のことだろうか・・
JRの宮島駅口より連絡船に乗り10分ほどで着いた
記憶がある。写真でも有名な鳥居が海中にあるあの
神社だ!今や世界遺産にも登録されている。
近年、台風の高波で浸水したり、一部の建物が壊れたりしたのをテレビで見た。当然お土産は紅葉饅頭
宝飯爺も買ってきたな~(懐)・・で・
なんで遠野さ厳島神社あんだべ?讃岐の金比羅で
早瀬さあるのと同じ感じなのすか~?
本家 (笛吹童子)
2007-05-09 11:59:42
  宝飯爺さん:
 私も、本家厳島神社には、6年ぐらい前に行きました。ゆっくり観られなかったことが残念です。
 あそこは、平家ゆかりの神社ですが、なぜ、小友なんでしょう?不思議ですよね・・・。
 PS:お土産は買いませんでしたが、もみじ饅頭を売っていた店で試食をしたような記憶がございます。でも、本当に食べたかどうかは記憶が・・・・。
奥玉 (名梨)
2007-05-10 12:53:11
 ご無沙汰しております。
 「奥玉」は千厩町に奥玉の地名が有り、奥玉の名字も存在します。
 長野ししの由緒は、他団体とは全く違う云われで、興味があります。
奥玉 (笛吹童子)
2007-05-10 15:46:38
  名梨さん:
 奥玉周辺の情報を図書館にて確認しました。しし踊りについては、奥玉村誌には、まったく記述がありませんでした。周辺では、仰山鹿子踊が大東町山口に伝わっており、盂蘭盆の仏前供養のために踊っており、文政6年(1823)銘の庭元、山口喜左衛門の免許状が残っているようです。これは、奥玉というより、大原周辺にその時代、ししおどりが伝承されていたことを裏付けるものだと思います。また、住田町寒倉の行山流鹿踊は上記の山口流の流れをくむようで、同じ住田町の下有住行山流高瀬鹿踊は江刺から伝わり、月山踊と称するようで、葛西系千葉氏の影響を受けた地域に早くから伝承され、後に伊達氏によって、紋の使用等の配慮がなされたことが確認できます。紋を賜るのは、南部領でも同じですね。
 気になるのは、今後遠野のしし踊りが合併等によりその数が減るのではということと、各保存会の踊りに変化が生ずるのではということです。
凄い・・・ (鹿踊マニア)
2007-07-02 16:50:40
素晴らしいほどの情報量に感服いたすところです。 はじめまして私は岩手県にある金津流獅子躍の元祖の金津流石関獅子躍の中立を勤めておるものです。 行山山口の謎にかなり近づいた気がします。 行山流山口派の創始は山口屋敷加藤又助と言われており、又助は江刺の伊三郎・六郎治等と安永2年に屋形様の前で踊り褒美を受けてる記録があります。 又助の子喜左衛門にはかなりの弟子がいたみたいです。 山口屋敷はおちぶれ、隣の渋民むらへ受け継がれました。 住田の高瀬鹿躍は江刺の地の神鹿躍より伝授されています。 江刺にある鹿踊供養塔につきましては、獅子躍供養・鹿躍供養・南無阿弥陀仏・・・石関には天照皇大神など結構多様です。 基本的には金津流は「獅子躍」・・・行山流は「鹿躍」と書きます。 もし興味を持たれましたら、一度私どものhpを御覧頂けたら幸いです。 yahooで金津流で検索できます。 長々と勝手に書き込みしてすみません。
別な意味でのマニア (笛吹童子)
2007-07-02 18:19:55
  鹿踊マニアさん:
 はじめまして!実際に踊られている方からコメントを頂き、恐縮しています。早速、HPを拝見いたしましたが、演目に遠野の幕踊り系しし踊りと同名の演目があり、あらためて類似性を確認することができ感謝申し上げます。私自身は、しし踊りを演じることができませんが、郷土芸能が好きで、色々と興味を抱いているところです。遠野のしし踊り関連の情報は、遠野まつりや遠野郷しし踊りの他、青笹しし踊り保存会、板沢ししなどで検索すると沢山出てくると思います。
ちなみに、遠野郷の元祖しし踊りと言われる駒木しし踊りについては、私の師匠格でもある郷土史家の「松崎じぇんご弐」のHPの松崎町の民俗伝承をたどっていくと駒木しし踊りの由来に行き着きます。
 話は変わりますが、遠野の歴史を調べていくと江刺との関わりが出てくることが多く、親近感をもっています。県内でも、神社の数が多いのも遠野との共通点です。芸能関連の話題が中心とはなりませんが、たまには覗いて下さい。
 最後に、金津流獅子躍の紋も九曜紋ですね。遠野では南部氏の紋としての説明がなされる場合が多いのですが、個人的には、かなり古い時代の「妙見信仰」と初期の「ししおどり」との関連を疑っています。

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