昔、大学時代の友人から、
「世の中の出来事のすべては、必然的だと思う?
それとも偶然的だと思う?」
と聞かれたことがある。
そのときは、確か「偶然」と答えたと思うが、
今は、「必然」だと考えている。
ビッグバンから続く、Aという出来事が、
B1、B2、・・・という出来事の引き金になり、
B1がC1、C2という出来事の引き金になり・・・。
という連鎖が続いていると考えているのだ。
但し、これは自然界に関してのこと。
殊に、人間が認知すること、若しくは人間の動静については、
「偶然」がほとんどだと考えている。
また、人間の論理にも限界がある。
論理とは、反対側にある偶然的なモノの関与するところが大きいと考えている。
(似たようなことを以前にもこのブログで書いた。)
人間の考える論理について、
①自然を認知する際に必ず誤差、誤謬が存在するし、
②価値観や前提の差異によって解が異なる。
第一、③人間の考える能力には限界があるので、
論理で突き詰めても、問いに適した解にはならないことがある。
以上、理由。
さてさて、硬い前置きだったが
今日読んだ藤原正彦の「国家の品格」は、
ほとんど上のような内容で占められていたと感じ、
オイラの「論理至上性の否定」という考え方の参考になった。
しかし、本のタイトル「国家の品格」については疑問を感じた。
日本の肯定的な意見は書かれていたものの、
あくまで副次的なものだったので。
この本での一節で、気になったところもご紹介。
この本の中でロックの「自由」という考え方は、
カルヴァン派への対抗であり、
大風呂敷、言いがかりに過ぎないという話が書いてあった。
ここの記述を読んだときに
オイラは、日本国憲法の本に書いてある一文を思い出した。
「人間の自由・平等は自然権的なもので、
神から与えられたという根拠を必要としない。」
自然権?これまた大層「論理的な」ご意見なことで…。
「世の中の出来事のすべては、必然的だと思う?
それとも偶然的だと思う?」
と聞かれたことがある。
そのときは、確か「偶然」と答えたと思うが、
今は、「必然」だと考えている。
ビッグバンから続く、Aという出来事が、
B1、B2、・・・という出来事の引き金になり、
B1がC1、C2という出来事の引き金になり・・・。
という連鎖が続いていると考えているのだ。
但し、これは自然界に関してのこと。
殊に、人間が認知すること、若しくは人間の動静については、
「偶然」がほとんどだと考えている。
また、人間の論理にも限界がある。
論理とは、反対側にある偶然的なモノの関与するところが大きいと考えている。
(似たようなことを以前にもこのブログで書いた。)
人間の考える論理について、
①自然を認知する際に必ず誤差、誤謬が存在するし、
②価値観や前提の差異によって解が異なる。
第一、③人間の考える能力には限界があるので、
論理で突き詰めても、問いに適した解にはならないことがある。
以上、理由。
さてさて、硬い前置きだったが
今日読んだ藤原正彦の「国家の品格」は、
ほとんど上のような内容で占められていたと感じ、
オイラの「論理至上性の否定」という考え方の参考になった。
しかし、本のタイトル「国家の品格」については疑問を感じた。
日本の肯定的な意見は書かれていたものの、
あくまで副次的なものだったので。
この本での一節で、気になったところもご紹介。
この本の中でロックの「自由」という考え方は、
カルヴァン派への対抗であり、
大風呂敷、言いがかりに過ぎないという話が書いてあった。
ここの記述を読んだときに
オイラは、日本国憲法の本に書いてある一文を思い出した。
「人間の自由・平等は自然権的なもので、
神から与えられたという根拠を必要としない。」
自然権?これまた大層「論理的な」ご意見なことで…。