Little by Little

慌てず騒がず

6月15日

2020年06月15日 | 日記
コロナのために、人生設計を根本的に組み直さなければならなくなる仲間がいる。コロナのような非常事態になった時に、すぐに首を切られるアルバイトではなく、切られにくい定職につくということだ。
それはとりも直さず、俳優を辞めて、一般の職業につくという事なのだけれど。ボクには出来ないな、違う職業に就くなんてこと。となると、飢え死に?

6月14日

2020年06月15日 | 日記
頑張る俳優に時々あるのは、セリフに間があかないようにと急いで息を吸う。それが、お腹でなく胸でするので、息の量が少なくて、体を締めてセリフを言うようになる。また、ある俳優は、大きな声を出そうとするあまり、すべてのセリフに力が入る。役作りを頑張る俳優にも言える。作りすぎて人間離れしてしまうことがある。
頑張りやテンションが高いのは好感が持てる。けれど、その無理はお客様に伝わる。俳優は役という特別な人生を生きる。けれど、その人生は俳優の自然な体と相反するものではない。その二つが一つになる地点を目指して稽古を積む。俳優の無理は、お客様に息苦しさを感じさせる。

6月13日

2020年06月13日 | 日記
 コロナ前は公演が相次いだので、そこに間に合うように、稽古をしたり、体調を整えていたりした。けれど、その脇では、自分が持っている根本的な弱点や欠陥を補填したり修正したり出来ずに、歯噛みしていた。
 しかし、お蔭様というのもなんだけど、今はそれが出来る時間がある。そして、ゆっくりと良くなってきていると思う。公演がない分良くなって行くのだけれど、良くなっても餓死しちゃったらね、元も子もない。

6月7日

2020年06月07日 | 日記
 「役作り」は、根元(役の心や思考など)から作っていけば、ゆっくりと答えが見えてくる。けれど、外側から役を作る俳優は、当てずっぽうでいち早く答えを出そうとする。だが、当たるわけがない。キャラクターは無限に近い。広大な海岸の砂の中から、特別な一粒の砂を見つけるようなものだ。またある俳優は、ワンパターンの陳腐な硬直した人物(例えば、お姫様はツンとして、悪者はダミ声でなどなど)を作って陳腐なドラマにしてしまう。
 それは、役作りなど念頭になく、ただ脚本のセリフを懸命に言っている俳優よりもタチが悪い。演出家は、「役作り」俳優が次から次へと繰り出してくる不正解を壊して、再構築しなけりゃならならなくなる。二重三重の手間をかけてくれちゃうのだ。
 役のセリフや動きは、俳優にとっては異物だ。その異物が異物でなくなるまで折り合いがつけられたら、つまり、脚本の意図やセリフや動きが俳優自身のものになった時、「役作り」は、ほぼ完結なのだ。しかし、その「折り合いをつける」のは、容易じゃない。脚本や役を分析したり、武士だったら武士の訓練をしなければならない。俳優には膨大な仕事が待っていると思った方がいい。

6月6日

2020年06月06日 | 日記
ボクは、自分を素人だって思う。面白そうなアイディアが浮かんだら、とにかく作る。名のある人のとか、偉い人のとか、今はやりのとか、文学的なのとか、芸術的だのとか、まるで考えない。浅かろうが、軽かろうが、頓珍漢だろうが、大変そうだろうが、これ芝居じゃないよだろうが、やったことがないだろうが、構わない。ボクが面白い!がいい。はい、とっても素人。
「好色五人女」はコントとショーを組み合わせたものだし、「春でもないのに」は全編フォークソングでドラマをつなぎ出演者たちもギターを弾いたり歌ったり、「カリフォルニア・ドリーミン」は、ポップスを40曲ほど歌い踊って過去と現在の人生を退避しながら進んでいく。どれもヒットした作品だ。プロの作家だったら、まず書こうと思わないシロモノ。素人だから出来たんだと思う。