ようこそ!フレンチレストラン『イル・ド・フランス』の泉英晴です。
シェフの一言
夜行列車

パリから南へ227kmの地点に古都であったBourges、静かで古い街並がたたずむはずれのRestaurant La Grande Pelouseにたどり着いた。
フランス人シェフ、3人の見習いの和気あいあいとした、
のんびりとしたレストランであった。
初めての日本人ということでみんな親切で、特にメートルドテルのジャンポールは優しく、
毎朝、車で部屋まで迎えに来てくれる。
はじめは戸惑ったメニューも、早い時点で全ての料理をこなしていた。
そんな折、シェフが魚料理専門レストランを紹介してくれるとのことで、
パリに向かうことになった。
いつもと違ってこの仲間たちと私は何か別れづらさを感じていた。
最後の日、フランス人の見習い料理人からプレゼントを贈られ、
パリ行きの夜行列車の中でその包みを開いてみると、包丁が入っていた。
フランス料理人になることの期待と友情を感じ取られずに入られなかった。
私は列車の中で号泣した。
ブルジュの街の灯りは小さくなり、その夜行列車は一直線にパリへと進んでいく。
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あこがれのフランス

北フランス地方のCombrai駅から1時間ほど歩いていくと、
美しく真っ白い城が浮き上がってきた。
そこが私を感動させた手紙の発信地Château de la Motte Fènelonである。
ドアを開けるとレセプションの女性は見慣れない日本人に驚き、シェフを呼びに行った。
奥から出てきたマダムとシェフが笑顔であたたかく迎え入れてくれた。
職人派の熱いシェフと8名のフランス人の料理人たちと、
朝8:30カフェ・オ・レとクロワッサンの食事から一日が始まる。
豊富な食材、料理レベル、高い料理人意識の中で働けることに、満足感でいっぱいであった。
その当時フランス料理業界は、
1960年代後半から起こりはじめた『新フランス料理』の革新時代に入っていた。
複雑さを簡素化、重い料理から軽さへと、
素材の持ち味を活かした表現が主流を成しはじめていた。
古典料理しか知らなかった私は、このシェフからは多くのことを学ばせていただいた。
その自由自在に表現する料理を求めて、シェフの紹介状を携えてペリゴール地方のレストランへ修行の場を移していった。
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ツェルマット

スイスの山々にうっすらと雪が舞い落ちはじめている。
ある日、友人の日本人カメラマンをツェルマットに訪ねてみると、長期滞在の外国の若者たちで活気に満ち溢れ、観光シーズンを迎えようとしていた。
ついでに仕事も探してみると、幸運にもHotel Sonneのオーナーが私を採用してくれた。
ポルトガル人の下働きと二人だけの厨房であったが、
自由に料理表現することができ、充実した毎日がつづいていた。
1978年、ツェルマットにも春の日差しが強くなってきたころ、フランスへ修行先を求めて各地の有名レストランに手紙を書き送ってみたが、なしのつぶてであった。
あきらめかけていたそのとき、一通の手紙がフランスから届いた。
「あなたのことをとても興味をもって読みました。」とあり、その一通がまた多くの人と出会う機会を与えてくれ、料理人ドラマはフランスへと舞台を移していきます。
追伸
ある日、日本から一人の登山家がやってきた。
もの静かで口数が少なかったが、心に秘める熱いものを感じ取ることができた。
マッターホルンの冬季単独登頂をもくろむ、長谷川恒夫さんだった。
彼が登頂する日は天候が悪く、一瞬の天候のあい間を突いて山頂にたどり着いた。
成功を祝って酒を飲み、山、人生、そして恋愛のことなどを語り合ったことを記憶している。
彼は1977年マッターホルン、1978年アイガー、1979年グランドジョラスとアルプス三大北壁を冬季単独初登攣して、一躍トップクライマーとなっていったが、
1991年パキスタンのウルタルⅡ峰南西壁にて雪崩に遭い消息を絶ってしまった。
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おれがシェフだ!

スイスの学校を出ると、仕事は見つけやすかった。
LuzernとBernの中間に位置するEntlebuchという田舎町のHotel Drei Königeで孤独と料理修行の辛抱がまた始まった。
オーストリア人の職人派シェフと4人のスイス人、下働きのスペイン人、旧ユーゴスラビア人、イタリア人。
食卓を囲むと何カ国ものことばが飛び交うが、私は黙って、ただその音調だけに耳を傾けている。
ここは、古典的なフランス料理が主流のレストランであったが、なぜか数ヶ月のうちにスイス人をさきおいて、重要なポジションを任されることとなった。各地での下積みや学校で学んだ基本がおおいに役立っていたのだ。
しかし、どうもドイツ語圏のシェフとはどこでも波長が合わなかった。
ある時突然胸ぐらをつかまれて「おれがシェフだ!」と激高した。でしゃばって余計な仕事をしたのかもしれない。
いや、彼のシェフとしてのプライドを傷つけたのだろう。
私のつくる料理が勝っていただけだった。
どこか自由につくらせてくれるところは無いのだろうか!
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