ビオダンサのヴィヴェンシア(エクササイズ)を経験して、
ふと、めぐってきた私の空想
家から、最寄りの駅まで、
「誰か」のエスコートを受けながら、
私自身は眼をつぶって、行くことができるかしら?
一瞬たりとも、眼を開けない
私の手を取って、ガイドしてくれる、その「誰か」に、完全に委ねて進むの
その「誰か」は、足元の段差やすれ違う人々や信号なんかについて、注意してくれるから、
私は、ただ、信頼して、
「誰か」を信頼した自分自身をも信頼して、
闇の中を、歩み続けることができるだろうか?
目の見える私たちが、完全に眼をつぶって歩くことは、
たとえ、安全な空間の中にあっても、勇気のいることだから、
やっぱり、
そのガイドが誰かってことによる?
家族や、親友や、心から愛する人であれば、大丈夫じゃない?って、そう思う?
うん、確かにそうだよね
でも、私の最近の変化はね、
たとえると、委ねても大丈夫だと思える人の範囲が広がっているって感じなの
極端に言うと、
こんな発想が浮かんでそれを実行しようとしたとき、
目の前に現れた人ならば、誰だって、信頼に価するんじゃないかと、思えるんだ
私たちが、何かができると思ったときには、
それを可能にする誰かがいることを、大きな自分が知っているからこそ、思いつく
だから、奇跡のタイミングでその役割を担おうとしてくれる人がいれば、
ただ、もう、それだけで、充分すぎるほどの、条件を、満たしているって思う
そして、究極を言えば、
ガイドは、必ずしも、人の形をした生命体でなくても、良いのかもしれないんだ・・・
言うまでもなく、
そんな実験をしなくても、
私たちは日常生活で、それと同様の場面に、いくつも遭遇しているんだよね