Riyo(里誉)’s クレヨン

世田谷区桜新町のスピリチュアルカウンセリングサロン「フォルテネージュ」です☆

人と行為を分けて考えること

2009-09-26 | フォルテネージュ

周囲から人格者と目されている人は、その名にふさわしい素晴らしい仕事をしているだろう

でも、

その逆は、必要条件ではない

つまり、

人に感動や気づきを与えるような偉業は、

必ずしも、周囲の尊敬を集める人格者によってのみ、なされるわけではない






モーツァルトが破天荒な人生を送っていたことは有名だし、

ユトリロが、酒に溺れた生活だったことも知られている


日本でも、

素晴らしい著作を残した文筆家の何人かは、自殺という最期を遂げている






芸術の分野に限ったことではなく、

著名な心理療法家の中には、異性関係にゆるい人もいるし、

私の知っている、生徒に慕われる教師たちは、子どもと一緒になって傷ついたり落ち込んだりしている


究極を言えば、

キリストでさえ、磔にされたあの時代には、神を冒涜するふとどき者と見なされていたではないか






人格者にならなければ、

すべてのことをきちんと理解しなければ、

人を導いたり、気づきを与えられないというのなら、

この世の大勢がその資格はないことになる






人間の心理を扱うカウンセラーやセラピストなど、特にそうだと思う

人間関係の専門家、人生の達人、人の心は何でも読めてしまう・・・みたいな人がいるだろうか

妄想も甚だしい






クライエントは、自分で啓発されていく

必要なことは、必要な時期に、ちゃんと発見するように自分で計画している

そのきっかけとして、

カウンセラーとの面接があったとしても、

カウンセラーが真理に導いたのではなくて、

クライエントが自分で自分の真理をつかみ取ったに過ぎない







だから、

クライエントは、カウンセラーを偉大視、絶対視する必要もないし、

ましてや、崇拝する必要はない

真理を発見した、自分を尊敬するほうがよっぽど正確だ


カウンセラーを絶対視すると、クライエントは困ったときに依存する危険をはらむから、

自立を阻むような、そんなカウンセラーは、やっぱり、素晴らしくないのだ


そう言う意味で、

カウンセラーは、人格者ではないほうがいい


「自分で何とかしなきゃ、こりゃ、ダメだ」と、本人が思うことこそ、真の援助だから








よく、

「人と行為を分けて考える」と言われる

「罪を憎んで、人を憎まず」と言われる

悪いことをした人は、根っから悪い人ではなくて、心の状態が貧しかっただけだ


「人と行為を分けて考える」のであれば、


善いことをした人も、未来永劫、永久的に善い人で有り続けるとは限らない


その考え方が変われば、行為が変わるからだ




だから、これまでずっと善人であり続けてこなくても、善いことはできる

心の状態を豊かにすればよい


そのことが、自分を快適にするのであれば、

ずっと、その状態をキープしていることが必要だ




こう、考えると、

善人とか、悪人とかというカテゴリー自体、やはり、無意味な考え方だと思う




                                    スピリチュアルカウンセリングサロン「フォルテネージュ」


                          

 

 



 



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2 コメント

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Unknown (ルピナス)
2009-09-27 18:10:36
里誉さん、いつも私の為にブログを書いているとしか思えない(笑)
ドキ!ドキ!
心の状態を豊かにするのは難しいわ。
ルピナスさん、 (里誉)
2009-09-30 18:30:33
いつも読んで下さって、ありがとうございます

心の豊かさって何でしょうね?
新たなテーマをいただいたので、
また考えて書いてみますね

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