今、何故、このことを思い出しているのか、
分からないのだけど。
過激派イスラム国によってとらえられて、
ひどい殺され方をした彼らのこと。
最期の姿がネットに投稿され、
動画や写真を、見る、見ない、見た、と、
当時、話題になったよね。
見るのは不謹慎だとか、非人道的だとか、
恐怖やら好奇心やら、
教育的配慮やら、
いろんな感情が往来してた。
でも、古今東西で、こんな習慣があったじゃない?
たとえば、ヨーロッパのギロチン台での処刑は、
たくさんの民衆が集まる広場で行われたし、
日本でも、死罪となった罪人は、
河原でさらし首にされた。
現在でも、死刑囚の死刑執行の際には、
関係者らが集まって、最期を見届けている。
死を公開するというのは、一線を超えた行為だし、
かなり、ギクリとするし、
話を聞くだけで、
心の奥をかき乱されるような、ざわざわとした感じになる。
ひとりの死を皆が見守るのは、
見せしめ的な意味合いとともに、
そこに、少しだけ、
人の最期への敬意みたいなものを感じるの。
彼らを罪人と一緒にしてはいけないとは思うけど、
もしも、私が後藤さんの立場だったら、
自分の姿をたくさんの人に見てもらいたいと思うだろう。
国際社会のひずんだ現状の重要な一部として、
誰であろうと知っておいてもらいたいと思うだろう。
たとえ、どんな動機からであってもいいから、
光景を目に焼きつけて、
理不尽な自分の死を、
何かの形に育てていってほしいと思うだろう。
・・・・いま、何かから、目をそらしていないだろうか?
Things will be only better