南太平洋のどこかの先住民族の慣習で、
子どもが生まれると、本当の名前と、もうひとつの名前のふたつを授けて、
本当の名前は、一生、使わず、誰も呼んではならず、
もうひとつの名前でずっと生きていくっていうのを、聞いたことがあるんだ
思い出せないほど昔に聞いて、
そのときは、「ずいぶん、おかしなことをするんだなあ」って思ったけど、
なぜか、心に残ってた
そして、その意味が、やっと、分かったよ
この前紹介した本、「空(くう) 舞い降りた神秘の暗号」が、その答え
私たちの本質は、「空」なんだ
すべての概念、思考、感情を含んで、それでいて0(ゼロ)の状態
そして、この地上で身体を持って<生きている自分>(仮に、「色」って呼ぼうか)を観察しているの
泣いたり、笑ったり、悩んだり、輝いたり、ずるいことしたり、尊いことしたり、・・
そんな「色」の自分の、
あらゆる経験を受け取っているのが、私たちの本当の立ち位置なんだ
だからね、
あれこれやっている自分は、本当の自分じゃないの
役柄を演じてみているだけ
あまりにもなりきっちゃって、どっちがホントの自分だか、分からなくなるんだけどさ
先住民族に受け継がれる慣習は、太古の人々が人間の本質を知っていたことを意味する
<本当の名前>っていうのは、「空」の性質を持ち、
そこは、静謐で、不動で、ただ在るだけの存在で、
誰も触れられない、神聖な場所なんだ
もうひとつの名前で生きるという、二重構造を取ることで、
本当の自分の立ち位置を、いつも、心にとめることができる
<生きてあれこれ経験している自分>のことを、
「頑張っているね」「ああ、悲しいってこんな気持ちがするんだね」とかって、
見ててあげているんだよ
それってね、
<空>は、<色>をまるごと受け入れるってことなの
どんな経験をしても、「おお!そんなことを味わったのね!」って、
まるで、幼子と母親の関係のように
そうしているとね、
<空>の本質である愛が、ただ<色>に注ぎ続けられるから、
もう、自分で自分のことが、愛おしくてたまらなくなるんだよ
何かができても、できなくても、
歓喜にあふれていても、絶望のどん底でも、
貧しくても、裕福でも、
健やかでも、病気でも、
「ああ、私は、私が、大好き!」って、心の底から、祝福できるんだ
そして、すべての願いの実現は、<空>と<色>のコンビが織りなす魔術でもって、叶えられていくんだと思う
こんなことを教えてくれるんだから、
未開とか原始的とかって、私たちが呼んでいる対象が、
なんだか途方もない、意識の成熟を実現しているように、思えてこない?