GRの戯れ言日記2

途中まで元々閉鎖された別会社のブログを引用して来た物。2017年2月から本格始動。それ以前は、はてなブログに書いてます。

知らず知らずの内に

2016-08-26 21:01:00 | 野球

 影響を受けてましたね・・・文面に書き方・喋り方が、うつってた所もありました(苦笑)以前触れましたが、週べのノムさんの前にコラムを担当してた「オレが許さん!」の連載でお馴染みやった豊田泰光氏が、亡くなられましたね(涙)豊田氏は、水戸商高時代に甲子園大会に出場した際、主将として「選手宣誓」を行った事でも本人がよく言ってた様に有名でしたね。1953年、高卒1年目ながら遊撃手のレギュラーとなり、シーズン1日目となる3月21日のダブルヘッダーで初出場。調子次第では6番打者を任され、9月の前半には5番打者としても出場した。9月15日以降は2番打者に定着し、強打の2番として活躍。最終的に115試合の出場で27本塁打(同僚の中西太・36本塁打に次ぐリーグ2位)を放ち、25盗塁を記録した。同年は堂々の新人王を獲得し、この年に記録した27本塁打は当時の新人選手の最多記録となった(1986年に清原和博に抜かれる・・・)。この様な華々しい活躍も、エラーも45個記録しており、同僚から監督へ"何で豊田を使うんだ!、外してくれ!"という声も出ていたし、元老が、エラーを連発しても"ふてぶてしく、反省するでもなく、エラー後に堂々とベンチに帰って来る態度"が、「可愛げがない」と九州の西鉄ファンからは、当初は非難の的になっていました(涙)九州出身でない選手でしたから、余計に「関東の余所者」という事もあったんでしょう・・・しかし2年目以降の活躍や やや守備力の向上でファンからのバッシングを封じ込める(グッド)他のOB選手・本人曰く"豊田の守備は歴代名遊撃手に比べたら全然上手くはなかったが、下手ではなかったぞ"と!
 プロ2年目の1954年には初のパ・リーグ優勝を成し遂げ、続く1956年には自ら首位打者となる活躍でチームをリーグ2度目の優勝に導いた。この時の打率はチームメイトの中西太とは僅差(5毛差)であった。最終戦を前に中西は本塁打・打点の2冠をほぼ手中にしており、結果次第では戦後初の三冠王が誕生する可能性があったが、チームメイト同士がタイトルを争って雰囲気を悪くすることを懸念した三原監督が最終戦で両者を休ませ、豊田の首位打者が決まった。続いて出場した1956年の日本シリーズでも活躍し、チームはセ・リーグ優勝の巨人を下して初の日本一となり、豊田はシリーズのMVPに選ばれた。その後も流線型打線と呼ばれた西鉄の強力な野手の一人として活躍を続け、日本シリーズには1957年と1958年に3年連続で出場し、チームは3連覇を達成。豊田も1957年には優秀選手賞、1958年には表彰はなかったが同年のシリーズで最多の4本塁打を放った。1959年のシーズン後は西鉄チームは優勝から遠ざかったが、豊田は安定した成績を残してリーグを代表する遊撃手となった。1962年には選手兼任で中西新監督を補佐する助監督を務めたがわずか1年で辞任し、同年のオフに国鉄へトレードされた。
 豊田は10年選手による移籍自由の権利を保有していたが、国鉄への移籍は権利行使による移籍ではなく金銭トレードである。国鉄入りした要因として、当時国鉄のコーチに水戸商の先輩である砂押邦信がいたことが挙げられる。豊田は水戸商時代、当時の立教大学野球部監督の砂押と入学の約束を交わしていたが、それを反故にしてプロ入りしてしまった。そのため、砂押から「最初立教大学に入ると約束したのにプロ入りしたではないか。二度もワシの顔を潰すのか!!」と一喝された。これが原因で砂押には頭が上がらなくなってしまい、国鉄入団となった。また、西鉄の西亦次郎球団社長は、豊田の放出を当初否定したものの、この頃国鉄球団の経営に関与するようになった産経新聞社の水野成夫社長と九州政界の大立者が介入して成立したとも言われている。国鉄への移籍後も2年間は中心打者として好成績を残すが、3年目から肘の故障が悪化し、2年にわたり治療を続けるものの完治せず、常時出場が困難になる。その後は脚力の衰えもあり、主に一塁手、あるいは代打として活躍した。1968年からは打撃コーチを兼任。同年には2試合連続で代打サヨナラ本塁打を達成した(この記録は豊田と若松勉しか達成していない)が、相手投手は2試合とも山中巽(中日)だった。同じ投手からというのはプロ野球史上豊田のみの珍記録である。この2試合連続代打サヨナラ本塁打は、よく自慢してましたね(笑)2011年に平田良介(中)が、「2試合連続サヨナラ本塁打」(代打ではない)を記録した時に「俺も記録を作ったけど、平田も素晴らしい記録を作ったぞ!」と!!
 元老は、反骨の塊・反権力というか「昔の人らしくない一面」もありまして"大したグラウンドでもないのに、何で「グラウンド挨拶」をしなきゃイカンのか、俺は絶対しないぞ!"・"巨人は「軍」なんてチーム名は、止めた方が良い、権力や戦前を想起させる!"・"プロは滅多な事ではミスしない、凡打で全力疾走するだけ無駄、もっと他に準備・やる事がある!・プロは、ケガするまでやっちゃイカン!この2つも当時の西鉄の共通意思や「三原オヤジ(三原さん)の教え」でもある"という精神も持ち合わせてました!こういった内容は、オレが許さん!や著書に書かれており、著書も2冊読みました!ただあまりにも反骨精神みたいなものが強すぎたのか、指導者としては自身も言っていた様に「不適格者」であったんか、的確な理論・難しい事を要求しないタイプでも、選手兼任コーチ時代を除けば1972年の近鉄で1年間コーチを務めるに留まりました(汗)さらに近鉄球団に"チームへの待遇が、悪すぎる!あれじゃあ、近鉄の選手がかわいそうだ、この球団の待遇の悪さ・金のかけなさは、ほぼプロとは呼べない!"という苦言を残して去って行きました・・・それ以降は、辛口評論家・西鉄の語り部的存在でプロ野球OB選手として君臨してました(笑)"西鉄が崩壊し始めたんは、太(中西)さんが、オヤジの娘さんと結婚し、「義父・義息の関係」になってからだ"という事も言ってましたね(涙)球界の問題点・正論をよく週べのコラムや他の媒体での連載でしてましたね。最後に聞きたかったんは、"この結果を見ても、まだ大谷翔平(日)の二刀流には、反対してるのか?"だけは、ほんまに意見を聞きたかった、2013年時点では元老は、"反対"してた・・・本当にありがとうございました!天国から球界への苦言を辛く・温かく呈しててください!通算成績は、試1814率.277 263本888点 安1699 でした。
 その偉大なライオンズのOBと対称的になってまいますが、来日1年(目)からの登板"6連敗"のフェリペ・ポーリーノ(西)は、2008年のマイク・ウッド(横浜)と並ぶ「外国人最多タイ連敗記録」を記録しました。既に「パ・リーグ記録」の2005年のブラッド・トーマス(日本ハム)・2011年のケルビン・ヒメネス(楽天)・2014年のグレッグ・レイノルズ(西武)・アンソニー・カーター(日本ハム)の5連敗を抜いており、パ・リーグワーストを記録・・・それとマイルズ・マイコラス(巨)が、リック・バンデンハーク(ソ)と並ぶ"外国人最多連勝記録"の"通算14連勝"を達成しました!!おめでとうございます!2015年の6月20日の対中日戦以来です(なおマイコラスもバンデンハークも2シーズンにまたがってでの です)。
 あと三浦大輔(D)が、24年連続安打を放ち、「"プロ投手として"最長記録」した事で、ギネス(ブック)記録に認定されました!「こちらもおめでとうございます!」ですね!!"1年に1試合は絶対に出場し、最低1本は安打を打ってるし、交流戦開始前まではセ・リーグの選手しか達成出来へん記録でした"よね(笑)野手を含めれば、日本プロ野球でも記録はまだ先にありますが、投手としては!本人曰く"打撃は得意ではないけど、好き。打席でも一生懸命やった結果かな"と。

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