right time right place

「正しいときに、正しい場所にいる」

うれしいことや、いやなこと。
なんでもとりあえず、必然だと思ってみる。

がんばれ、東京電力。

2013-10-15 09:25:50 | 日記

なんか最近、福島第一原発関連のニュースが多く聞かれる気がします。
そのほぼすべてが、耳に快くない、「ミスが発覚した」とか「解決策がない」とか、そういうの。
技術者の人とか、お偉いさんとか、ときには社長さんが出てきて、繰り返し頭を下げていらっしゃいます。


ぼくが改めて言うまでもなく、福島の原発はまだたいへんなことになっているようです。
ぼくが報道を通して知る限り、「事故は収束」していないし、「状況はコントロール」されてもいない。


しかし、それにしても、「凡ミス」が多すぎるように、感じませんか。
報道で知る限りですけど、何かを置き忘れたり、水を流すタンクを間違えたり、
という話を聞いていると、さすがのぼくも、「ほんまかいな」とツッコミの一つでも入れてみたくなります。
そして、そんなぼくに代わって、テレビの評論家やら、「街のおばさん」やら、国の大臣さんやらが、
これまた入れ替わり立ち替わり登場して、「ちゃんとせい」と、東電の人を叱りつけてくれているわけです。



この構図、なにかに似ているなあと、ずっと思っていました。
それがいまわかった気がして、それは、「成績の悪い子と、その周りの大人」の関係です。



「成績が悪い子」が、テストで芳しくない点数を取ってきたとき。


学校の先生からは、多くの場合、「これこれ、もっとがんばるように」と努力するよう諭されます。
親御さんからは、これもよりけりですが、「なんでもっとがんばらないの」と叱られてしまうかもしれません。
友だちからは、もしかしたら、「お前、バカか」と蔑まれることもあり得ます。
塾の先生に見せたら、「ふむふむ、こことここができてないね」と原因を分析されることになるでしょう。


こうした状況で、「よし、次はがんばろう」と思える子どもは、どれくらいいるでしょう。
例外的に心が強い子であればあるいはそうなるかもしれませんが、
おそらく多くの場合、子どもは「どうせ、ぼくなんか…」という気持ちになってしまうと思います。



教育の仕事を10年くらいやってきた経験上、ぼくはわりと強く思っていることがあって、
人がその能力を十全に発揮することを妨げているものがあるとすれば、
それは「ぼくにはできない」という自己評価の低さが、その筆頭にくるんです。

どんなに努力を重ねて獲得した能力を備えた人であっても、
「ぼくにはできない」という自信の欠如には、おそらく勝てません。

そして、言うまでもなく、自己評価と外部評価は得てしてシンクロするものです。
いろんな人から「お前はバカだ」と言われ続けた人が、それでも自信を保ち続けるというのは、難しいことです。



ぼくには、東電の人たちが、「成績の悪いことを咎められ続ける子ども」に見えてしまいます。
もちろん、子どもにだって悪いところがあります。
努力を怠ったのは事実でしょうし、叱られて当然というのもわかります。


でも、いつまでも周りの大人が寄ってたかって叱り続けたところで、状況は好転しないでしょう。
子どもはますますいじけ、自信の芽すら摘み取られ、不安と恐れの下に日々を送ることになるかもしれません。
そして、そうした状況がもたらす心理的な不安定さこそが、
咎められ続ける「失敗」の、そもそもの原因になったりするんです。



きっと、「励ます人」が必要なんです。
悪いことは悪いと言った上で、「次はがんばろうね」という人が。
そして、がんばっているところを見てあげて、「えらいね」と言ってあげるような、そんな人が必要なんです。
子どもに関しては、かなりの自信を持って、そうだと言い切れます。


「そんな甘ったれたこと言うなや」と、多くの人は言うでしょう。
それでいいんです。
「励ます人」は、少数の方がいい。
みんなが優しいと、子どもはそれこそ甘えてしまいます。
何事もバランスです。


学校や家庭で厳しい目にさらされている子どもには、塾の先生は優しく接します。
逆に、「学校が授業崩壊していて先生にはタメ語、なおかつ家庭では自由放任主義」というような場合、
塾の先生はときに子どもに「人の道」を説く必要に迫られます。


別にそれは「子どもの未来のため」を思っての慈善的動機からなる行動ではないんです。
そうではなくて、塾の目的というのはあくまで子どもの成績を上げることなのですが、
そのためには、子どもが精神的に健全な状態であることがどうしても必要になるからなんです。


過度に自信を失った子どもも、過度に「怖いものなし」の子どもも、
そのままでは勉強ができるようにはなりません。
その子の成績が伸びるようにしようと思ったら、塾の先生は、
その子に欠けていると思われるタイプの「大人の目」を想像し、
そのような大人を演じることで、
その子の精神的な成熟のバランスを整えるということを、無意識にやっています。


繰り返しますけどそれは、少なくともぼくの場合、「その子のことを考えて」という人道的な行いではなく、
「そうした方が結果がよくなるから」という、あくまでもクールな試算に基づく、打算的な行動に過ぎないのです。



ぼくは、これからひっそりと、東電の人にエールを送る立場を採ろうと思います。
でもそれは、決してぼくが人間的慈しみにあふれる「マザーテレサ」みたいな人だからではありません。
そうではなくて、そうでもしないと福島の問題は一向に解決しないんじゃないかという危機感に裏打ちされた、
極めてビジネスマインドあふれる、現実主義的な選択なんです。



というわけで、東電のみなさん、ぼくはみなさんを応援します。
文句ばっかり言われてもへこたれずに頑張っているみなさんに、ぼくは静かな敬意を贈ります。




「啓示は光を与えるのであって、レシピを与えるのではない。」
 ~哲学者・レヴィナス~

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