これは現前(いちいち断るあたり…トホホである…まー気にするな! ←誰にともなく)。ヨレヨレになって帰宅したトコロである。44歳花粉症の女にライヴハウス1Fスタンドはキビシイのであるがしかし、顔は笑っちゃっているんである…。だって楽しいんだもん。
先週俄かに花粉症が劇症化し(どうも花粉めは耽美者の体内で雌伏の日々ののち、満を持して臨界点を超えやがったらしいのだ)、ヨレヨレになっていたところへもってきて、強風の日曜日に中野くんだりまで師匠のライヴを観にいって(精神の)暴風に吹き曝されたについでに風邪をひきこんだらしく、昨日から発熱していた耽美者なのだが(…無駄に長い文脈である…すみませんねどうも)、昨日は極悪に仕事を切り上げ(同僚の皆さんにご協力いただいた…ありがとー)て定時に上がり、ついでのことにRの夕飯も放棄、弁当をあてがい、ドーピングして9時間眠り気合いで治したとも!
てな訳で本日も仕事を定時で切り上げ、Zeppである。今回のツァーはコレ一日しか取れなかったので、気合も入ろうというもの。地方にこそ行かないのだが、ソロになってからの東京・神奈川のライヴはほぼ行っている、と思う。耽美者はTHE YELLOW MONKEY に関してはまったくのところ“遅れてきたファン”なのであって(ちなみに略しては呼ばない…吉井和哉が略さないからである…耽美者は忠犬のよーなファンなのでw)、転げ落ちるよーにスキになったのが活動休止した後だったんである…初めて生で観たのは解散発表後の東京ドームだったりなんかする。ただでさえ周回遅れなので、観られるものは観ておきたい。
耽美者は評論家ではないのでコレはレポートなんかではなくて、自分のためのただの思い出語りである(ごめんなさい)。
中盤で、YOSHII LOVINSON 名義のシングル“トブヨウニ”のC/Wだった“BLOWN UP CHILDREN”をやった。耽美者はちょっとアメリカ中西部の匂いがするこの曲がCD聴いた時からスキなのだが(まーそもそも“スキでない”曲が存在しないのだが…)、初めてライヴで聴いたのは吉井和哉の名で始めた最初のツァー(だったと思う)で、やはりZeppだった。
その前の年、2005年の7月2日今はないNKホールでのライヴのチケットを耽美者は初めて取っていた。ソロで活動を再開してからの初めてのツァーで、耽美者はそもそもライヴに通う行動様式を持ち合わせない人間だったのだが、どーも愛は性質を超克した(?)のだな。初めてのライヴで、楽しみでもあり怖くもあった。その年、耽美者の父親は末期の癌を闘っていた。大学入学と同時に家を出て東京で就職して結婚しさらに離婚したりなんかして、そういう耽美者の生活のラインと父親が交差することはあまりなかったし、たまに帰れば激突する親子関係だった。愛されていることは知っていたが、疎ましかった。7月2日、ライヴ当日の未明、父は死んだ。未だに多方面に内緒だが(当たり前だ)、その夜のライヴに耽美者はRを連れて行った。だってその日のうちに帰っても父が生き返る訳ではない。
初めてのライヴはただ楽しかった。次の日の早朝、新幹線に乗った。
それなりに悲しく、しかしその後の生活で耽美者は父のことを思い出したりはしなかった。父との関係は、自分の中で終わっていたのだし。
その初めて聴いたZeppの“BLOWN UP CHILDREN”で、耽美者は死んでからほとんど初めて、父のことを思った。
馴れ馴れしい口調で語りかけてきた
「これは愛だ」と「あなたのため」と
I CAN'T GET NO "SATISFY"
ハッタリばっかで
(BLOWN UP CHILDREN)
父はそういう人だった、とまざまざと思った。 アイキャントゲットノーサティスファイ! 報われることの少ない人だった。満足の少ない人だった。私生児で、淋しく育ち、家族をつくるそのことに執心した。その心に報いない娘だった耽美者だからわかる。そういう人で、そういう人生だった。
Zeppだったからかもしれない。波止場に向かうあのロケーション。父は外国航路の船員で、船が日本の沖合に停泊する長期の休暇には、家族は打ち揃って(めかしこんで)港へ会いに出かけた。耽美者は海が怖くて、大嫌いだった。
子供は親の心には決して報いない、そういうものだと娘だった耽美者は知っている。息子Rを見ていてもまざまざと思う。その連鎖で、それが希望で、光で、絶望と裏表のコインなのだ。
初めて父を思い出して、そのことのために泣いた曲なのだった。
今夜もその記憶が輻輳して、やっぱりちょっと泣いてしまった。
これは自分が書いておきたかったので書いた。自分メモにしては長かったか(苦笑)
アルバムで叩いているドラマー、ジョシュ・フリースのドラムがホントに良くて目の覚める思いがした。音が大きいのにクリアで、ビートに乗るこちらのステップの精度があがる感じ。
先週俄かに花粉症が劇症化し(どうも花粉めは耽美者の体内で雌伏の日々ののち、満を持して臨界点を超えやがったらしいのだ)、ヨレヨレになっていたところへもってきて、強風の日曜日に中野くんだりまで師匠のライヴを観にいって(精神の)暴風に吹き曝されたについでに風邪をひきこんだらしく、昨日から発熱していた耽美者なのだが(…無駄に長い文脈である…すみませんねどうも)、昨日は極悪に仕事を切り上げ(同僚の皆さんにご協力いただいた…ありがとー)て定時に上がり、ついでのことにRの夕飯も放棄、弁当をあてがい、ドーピングして9時間眠り気合いで治したとも!
てな訳で本日も仕事を定時で切り上げ、Zeppである。今回のツァーはコレ一日しか取れなかったので、気合も入ろうというもの。地方にこそ行かないのだが、ソロになってからの東京・神奈川のライヴはほぼ行っている、と思う。耽美者はTHE YELLOW MONKEY に関してはまったくのところ“遅れてきたファン”なのであって(ちなみに略しては呼ばない…吉井和哉が略さないからである…耽美者は忠犬のよーなファンなのでw)、転げ落ちるよーにスキになったのが活動休止した後だったんである…初めて生で観たのは解散発表後の東京ドームだったりなんかする。ただでさえ周回遅れなので、観られるものは観ておきたい。
耽美者は評論家ではないのでコレはレポートなんかではなくて、自分のためのただの思い出語りである(ごめんなさい)。
中盤で、YOSHII LOVINSON 名義のシングル“トブヨウニ”のC/Wだった“BLOWN UP CHILDREN”をやった。耽美者はちょっとアメリカ中西部の匂いがするこの曲がCD聴いた時からスキなのだが(まーそもそも“スキでない”曲が存在しないのだが…)、初めてライヴで聴いたのは吉井和哉の名で始めた最初のツァー(だったと思う)で、やはりZeppだった。
その前の年、2005年の7月2日今はないNKホールでのライヴのチケットを耽美者は初めて取っていた。ソロで活動を再開してからの初めてのツァーで、耽美者はそもそもライヴに通う行動様式を持ち合わせない人間だったのだが、どーも愛は性質を超克した(?)のだな。初めてのライヴで、楽しみでもあり怖くもあった。その年、耽美者の父親は末期の癌を闘っていた。大学入学と同時に家を出て東京で就職して結婚しさらに離婚したりなんかして、そういう耽美者の生活のラインと父親が交差することはあまりなかったし、たまに帰れば激突する親子関係だった。愛されていることは知っていたが、疎ましかった。7月2日、ライヴ当日の未明、父は死んだ。未だに多方面に内緒だが(当たり前だ)、その夜のライヴに耽美者はRを連れて行った。だってその日のうちに帰っても父が生き返る訳ではない。
初めてのライヴはただ楽しかった。次の日の早朝、新幹線に乗った。
それなりに悲しく、しかしその後の生活で耽美者は父のことを思い出したりはしなかった。父との関係は、自分の中で終わっていたのだし。
その初めて聴いたZeppの“BLOWN UP CHILDREN”で、耽美者は死んでからほとんど初めて、父のことを思った。
馴れ馴れしい口調で語りかけてきた
「これは愛だ」と「あなたのため」と
I CAN'T GET NO "SATISFY"
ハッタリばっかで
(BLOWN UP CHILDREN)
父はそういう人だった、とまざまざと思った。 アイキャントゲットノーサティスファイ! 報われることの少ない人だった。満足の少ない人だった。私生児で、淋しく育ち、家族をつくるそのことに執心した。その心に報いない娘だった耽美者だからわかる。そういう人で、そういう人生だった。
Zeppだったからかもしれない。波止場に向かうあのロケーション。父は外国航路の船員で、船が日本の沖合に停泊する長期の休暇には、家族は打ち揃って(めかしこんで)港へ会いに出かけた。耽美者は海が怖くて、大嫌いだった。
子供は親の心には決して報いない、そういうものだと娘だった耽美者は知っている。息子Rを見ていてもまざまざと思う。その連鎖で、それが希望で、光で、絶望と裏表のコインなのだ。
初めて父を思い出して、そのことのために泣いた曲なのだった。
今夜もその記憶が輻輳して、やっぱりちょっと泣いてしまった。
これは自分が書いておきたかったので書いた。自分メモにしては長かったか(苦笑)
アルバムで叩いているドラマー、ジョシュ・フリースのドラムがホントに良くて目の覚める思いがした。音が大きいのにクリアで、ビートに乗るこちらのステップの精度があがる感じ。
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