耽美者ドメスティック!

「生きること? んなこた下僕に任せておけ」と言ってみたい、貧乏耽美主義者の日々茫々録。

耽美主義者の週明け或いは物憂い終電 【パスカルズ】

2015-08-18 00:42:39 | 漂流的視聴録
今現在、0時41分首都圏某駅であるが…ちなみに週明け(盆休みとも言う)月曜深夜、帰宅を急ぎたい勤労中高年であるところの耽美者(懐かしき一人称)、電車が止まって困惑。何処ぞの駅に人及び警察官が立ち入り運転見合わせ。マイガッ。立ち入りの人は負傷のため暫く電車は止まる、らしい。勘弁して下さいよもう。
うっかり座っているのをいいことに、しれっと記述を始めてみた。六年振り、くらいかしら。面倒なのでいわゆる最近の記事は参照しないけれども。
因みにリアル現前の耽美者(あまりにしっくりくるこの人称よ!わたくしとかあたしとか書いてみたくもあったのだが…)、ただの酔っ払いである。アルコール摂取量缶ビール二本、日本酒二合。もうちょっと勿体ぶって再開させたかったかもしれないこのブログ、酔っ払って台無し。首都圏某線にて立往生のままに記述。某線と言いつつバレバレの北区赤羽駅。負傷した人は搬出困難にて運転見合わせと車内放送が繰り返し。耽美者、帰れません。因みにこの投稿はスマホから。耽美者だって多少は進化(はい、プログレス)しているのである。
さて、そんな訳で耽美者はちゃんと書きたかったんである、ライヴレポとかそういう類を。しょうことなしにやりますが(だって電車が動かない。二日酔いの無念極まる僕のためもっと電車よ真面目に走れ!by福島泰樹〈師匠〉)、素晴らしいライヴであった、本日のパスカルズ。
8月17日代官山〝晴れたら空に豆撒こう〟にて、パスカルズを聴く。
ライヴで聴くのは初めてである。有難いことにお誘い戴いたので、万難を排す勢いで参じた。

と書きつけたところで電車が動き出した。さて1時33分、やれやれ。
ありとあらゆる前振り欲求がーーわたしとは何か、ブログを書いているこのわたしと騙りに関する前提についてーー襲来したので、(ついでに睡魔も)擱筆する(指を止める)。
明日、我に返った自意識の頬を張る感じで真面目に記述したい。
とりあえずyoutubeでパスカルズなぞ聴き幸せな帰路なのである。
5時起きだがな!
では諸君(誰)、また明日。

福島泰樹 短歌絶叫コンサート(月例)/吉祥寺 曼荼羅4月・5月(備忘メモ)

2010-06-07 05:33:46 | 漂流的視聴録
自分のための備忘ログとして。
(へろっと復活させてみたが、ブログなるもの、自分自身の備忘録として甚だ便利であるということに今更ながら気づいたのである…我が不束なる海馬のためのアーカイヴとして、大いに活用したく思う)

4/10
福島泰樹(短歌絶叫)/ 龍(g.v.)/ 永畑雅人(pf)

〈セットリスト〉
タイトルその他いささか信頼性に欠けるわが海馬の朧な記憶による。誤謬思い込みありまくりと思われる。

李庚順 (詩・寺山修司/短歌・福島泰樹)
戦士の休息 (詩・寺山修司/短歌・福島泰樹)
淋しい朝 (散文 短歌・岸上大作/短歌・福島泰樹)
六月の雨 (詩・中原中也/短歌・福島泰樹))
別離  (詩・中原中也)
走れ小僧  (散文 短歌・村山槐多/短歌・福島泰樹)
   *
バリケード・1966年2月 (短歌・福島泰樹/曲 歌・龍)
夕暮(短歌・福島泰樹/キング・クリムゾン “エピタフ”/歌・龍) 
ダンス (詩・中原中也/短歌・福島泰樹)

5/10

福島泰樹 (短歌絶叫)/ 龍(g.v.)/ 永畑雅人(pf)

〈セットリスト〉

朔太郎幻想 (詩・萩原朔太郎)
墓場まで何マイル? (詩 テキスト・寺山修司)
襤褸の旗  (詩 テキスト・長沢延子)
アラビアを往く (詩・中原中也)
夕暮  (短歌・福島泰樹/キング・クリムゾン“エピタフ”/ 歌・龍)
曇天  (詩・中原中也)
真夜中の子供たち (詩・中原中也)
ダンス (詩・中原中也/短歌・福島泰樹)
望郷  (詩・寺山修司/短歌・福島泰樹)


(メモ)畸形化マッチョイズム≠フェミニズム/子供の/少女の/ディードル、ダー、ダー/雨粒のワルツ




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ゴス展(横浜美術館)/3月23日残響エントリ

2008-03-30 19:47:29 | 漂流的視聴録
“Younger than Yesterday” Ricky Swallow (ゴス展)

またしても残響ディレィ的(日本語やや崩壊中)エントリ。記述内時間3月23日ホリデー、何だか本日も爽やかに目覚めたらしきヴァージョン・アップ中のR、本日一発目の一言。「ロールケーキ全部食べちゃったんだ?」…ばれてーら…週日無言で買い帰って冷蔵庫に放置してあった2分の一サイズのロールケーキ(スーパーのスィーツ<笑>売り場でよく売ってるやつだ)を、昨夜丑三つ時に悪心を起こして食っちまったんである、ええ全部。「食べましたとも」(ひらきなおり)「あー…そーなんだー…いつ出てくるかと思って敢えて触れなかったのに…」朝から何ともいえない憐憫と軽蔑が綯い混ざったよーな16歳男子の眼差しに責められる耽美者である…悪かったよああ悪かったとも。ことほど左様に最近何かと分が悪い母であるが、そーやって母のデザイアの暴走をいちいち検証するよーな言葉を投げるな息子よ。大人になれ…って子供だしな…まあ、バツが悪い耽美者なんであった。

さて、かねて観覧しようと思っていた横浜美術館の「ゴス展」(3/26終了…残響エントリ、何の役にも立ちません)へ出掛ける。
野阿梓の復刊なった『兇天使』を再読しながらアガンベンの『スタンツェ』を併読していたその週末、自分の中で響きあうものがあるかなと思ったんである(…しかしこれはあまりにも耽美者が穿ちすぎで、「ゴス展」自体はそのタイトルから類推されるように、非常にファニーな感があった…)。耽美者はこのだらだらした記述からお分かりと思うが要約の才がない、のでちょっと自信がないのだがそこらへん記述してみる。『兇天使』の前半で、検察天使ルシフェルとイエズス会士にして古生物学者であるティヤール・ド・シャルダン(神の恩寵による進化を提唱、いわゆる人類進化の到達点としてのオメガ・ポイントのヴィジョンを提示)が激しく喋喋する場面、天使がいう。「にんげんよ、死を怖れよ」文化すなわち<にんげんの造ったもの>とは死から逃走するための無限連鎖的な装置、つまり生殖と文化が人間を個ではなく連鎖する類として永続するための桎梏となる。現前、この生そのもの、物質の不安と恍惚を知れと、コレは人ならぬ天使ならではの酷薄で言い放つんである。『スタンツェ』で論考されるのは中世の修道士における「メランコリー」(死にいたる病)を緒とする西洋文明における表象の変遷だ。いずれも扱われているのは神を前にした後退り、死を前にした逃走としての<文化>イメージである。

「神聖なる善からの後退り」の感覚、つまり精神の豊かな可能性を前にした人間のこうした逃走の感覚は、そこに根本的な両義性を内包している。(中略)怠惰な者が神聖なる目的から身を引くということ、それは実際、彼がこの神聖なる目的を忘れていられるとか、望まないでいられるとかいうことを意味するのではない。神学的な用語を使うなら、彼に欠けているのは救済ではなく、救済へと導かれる「道(ヴィア)」である。心理学の用語を使うなら、怠惰な者の後退りとは、欲望の喪失を暴露しているのではなく、達成できないにもかかわらず、むしろその対象になろうとしているということなのである。対象を欲する意志の倒錯こそが、彼のものである。が、対象へと導く道は、彼のもとにはない。自己の欲望への道を、彼は欲すると同時に遮断しているのである。
『スタンツェ』ジョルジョ・アガンベン著/岡田温司 ちくま学芸文庫(青字部分、傍点)

到達されえないものを対象とする欲望の痙攣的な持続。もっとわかりやすーい、俗な言い方も記述されている。曰く「怠惰は何でも欲しがるが、努力しない」…ああ身も蓋もない…。
で、ぐるりと戻るけれど「ゴス展」である。
耽美者は、ゴスというのは逃走の身振りの表象なんだろうなと思ってきた。死に魅入られながらの逃走、自傷しながらの肉体への甘やかし。
絶対からのファニーな逃走。
上記で、ごちゃごちゃと耽美者が引用したようなことを無意識に(あまり言語化されずに)幼い、稚いやり方で表現している。しかし、多分その表層のキッチュな可愛らしさに幻惑されて、企画展としてはいささかピンボケだったかなと思われる。
(来場したゴスロリ・ファッションのお嬢さん方を対象にファッションコンペなんてやっていたし…苦笑)
耽美者が見たかった束芋の巨大な映像インスタレーション、蠢く手(指)が変容して永劫につながり、ぐるぐる輪舞する“ギにょる”や、リッキー・スワローの骨の彫塑など、心惹かれるものはあって、楽しく観覧はしたのだが。
ピュ~ぴる、吉永マサユキの写真やメキシコの作家のコラージュなどは、あまりにいとけなく、幼く、対象が無垢な剥かれ方をしていて、いわば“児戯にひとしい”。無論、ゴスとはすなわち児戯なんだけれど。
ボディピアスや性転換、身体改変の隣に可愛らしいお隣さんとしてファニーな死が近接している。その認識のされようが、若い。死に物理的に近づいた肉体ではない、ぴちぴちしてかあいらしいのだな。悦楽より、快楽寄り(さー耽美者ええかげんなこと記述しだしております…そろそろ遁走だ)。ま、減衰しつつある四十代の肉体をひきずった耽美者にはこのお馬鹿さん加減が眩しかったのだ(苦笑)。

自分の持続的な・痙攣的な欲望について、考える齢になったのだな(?)。死期が近いのでしょうかしら(笑)。

それやこれで再び遺恨のロールケーキ(笑)を購い帰る。Rも本日は受験期の塾の友人たちと出かけたらしい…秋葉原、そしてメイド喫茶へ行ったのだそう。
「オムライスにケチャップでガンダム描いてもらった?」
「…オムライスは注文してない…(疲労困憊中)」
「何頼んだの?」
「ミルクティ…まぜまぜしますーってステアして貰った…」
「おおー…」
「あーゆーとこは乗りよくいかないとね」
なるほど。…しかし。
母がゴス展、子はメイド喫茶ってどうなの?

やれやれ。

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古川日出男朗読ギグ(渋谷O-NEST 1/18)・映像公開

2008-03-30 01:00:08 | 漂流的視聴録
さて現前のことから。3月29日沙汰デー(この変換、ブログ更新出来るのが土曜日くらいなので“沙汰のある日”…なんちゃって)。朝、例によってヴァージョン・アップ中のRとともに爽やかに起き出し、花見日和とはいえオウチに籠って快調にルーチン・ワーク。洗濯、ソージときて、流し台の下に詰め込んだショッピング・バッグ(ビニール袋)の類を多少整理しようかとごそごそしていたらば、ワイン用の紙バッグの中から阪急デパートの未開封の包みが出てきた…かあいらしいニットで編んだ袋入りのチョコレート(唐辛子入り)。ワインだけ取り出して、そのまま仕舞っちまったものらしい。誰に貰ったものなのかも朦朧なままに、本日美味しくいただきました。Yちゃんだと思うのだが如何ざんしょ? ご申告のほど! 何も出ませんが(ごめんなさい)有難く頂戴した次第でございます。…いつのだったのやら…。


さて昼からは通院し続けている至近の歯医者である。年末から、四本めの治療である…どんだけやねん…。ともあれ仕様がないのでまたまた無抵抗にごりごり削られる。この歯医者、耽美者にしては珍しく嫌がらず通い続けているのだが、いつ行っても怖いくらい清潔な診察室である。ぴかぴかなんである。大きなテディ・ベアのよーな温厚な若い先生がひとりでくるくる治療していて、耽美者はわりにこの先生が好きである。
歯医者とその患者てのは正しくドブ浚いと浚われるドブの関係なんであって、歯科医というのはホントに重労働であるなと感に堪えない。特に耽美者のよーなメンテナンスしてないドブは、ホントにイヤだろうなあと忖度する(耽美者は歯磨きが苦手でヘタクソなので、いつもでんでん磨けてない)。しかし浚われるドブは内壁を削られながらエロティックな歓びを感じている、のかもしれない…(何だかな)。

さて、残響ディレィなエントリ。今年明けてすぐに出かけたイベント、キアズマの古川日出男(トラック/鈴木康文・虹釜太郎)朗読ギグの映像がフルで公開されている。この疾走感、ホントに、カッコイイ。下からGO!ですよ。ロケンロー!

『マザー、ロックンロール、ファーザー』(古川日出男/鈴木康文/虹釜太郎)

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今更視聴録・福島泰樹VS原田伸雄 ダンス/デカダン(中野テレプシコール)

2008-03-16 21:43:30 | 漂流的視聴録
さて現前時間3月2日、張り付く対象と申し上げるべきか息子R(心がオヤジの耽美者はうっかりハンケツ王子とか何とか思いついて云いそうになっちまうので自重したい…って、ダダ漏れであるな…新聞エッセイ欄的センスであることよな)が近所の図書館へ敵前逃亡を図ったので、なすこともなく暇な耽美者である…と書いたところでまたしてもナンであるが、現前時間は3月9日サンデー、穏やかな日和だったらしいが一歩も外に出ていないので(この辺は一週間前と変わらないのであった)よく分からない、とそんなホリデーである。息継ぎなしで読めたかな(苦笑)? とこの長い文脈は耽美者が金井美恵子のファンであることとは余り関係がない…と思う。垂れ流し二回転半捩り入りの悪文、ご容赦くださいアル。この日録の記述が同期される日は来るのか、どうか…すべて緑になる日まで、だな(意味不明ながら)。
と言ってる間にさらに月日はなすすべなく流れ、同期した日常から置き去りのこのエントリ…現前3月16日。息子Rの留年まで決定してしまったわい! …慨嘆。

そんな感じで相変わらずへたれな耽美者であって、ディレィかけたよーな(?)過去の残響エントリ。2月24日の日録と師匠のライヴの感想など。画像は24日朝、目覚めた耽美者の枕からの光景(よくリアル友にどこで寝てるのかつーことを聞かれるのだが、あの部屋でこのよーに寝ているのよw)で、窓の外の冬枯れの梢がゆさゆさ揺れているのがはっきり判る強風であった。
ライヴは中央線の中野なので昼夜2回のうちソワレの方にゆくことにして、その前に八王子のお友達Kちゃんとランチでもと約束していたんであるが、強風に煽られ交通機関の雲行きが怪しい。駅に着いた時点で強風と沿線火災(!)で二線が動かず、やっとこさ次の駅で乗り換えようとしたらその線もストップ。行く先々にダンジョンがあるよーな都内のレールマップを右往左往、やっとこさ八王子に辿りついたのはランチならぬオヤツの時間なんであった…。耽美者は風の日が苦手で(何かに切迫するよーな気分に根拠なくなりがちなので)、既にグロッキーなのである。
あんたは三時間かけて何しに来たんじゃと言われつつ一時間後には中野へ向かう(そんな短い逢瀬でもお話したかったんだよKちゃん!…なんてな)。
暮れきって風はますますびゅーびょー吹き荒ぶんである(花粉もな!)。

さてライヴである。…えーと…敬称略でいきます。普段は月例で吉祥寺の「曼荼羅」にて開催の短歌絶叫ライヴなのだが、今回はちょっとイレギュラー(いや、スペシャル?)な感じで、舞踏の原田伸雄とコラボレーション。ピアノ、パーカッションは永畑雅人。
テレプシコーラは耽美者はじめてだったのだが、ふるいアンダーグラウンド感のあるスタジオ。後ろの方で立ち見する。耽美者が福島泰樹の短歌絶叫ライヴに初めて行ったのは20年位前で、それから(聴くこちら側の)ブランクがあり、最近時間が合えばまた行くようになった。再び(時たま、ではあるが)通うようになって、その変わらなさに驚いている。時間が止まっているのかというとそういうことでもない。つねに観客層が代謝(?)されて若いひとが一定数いる。音も違う。
しかしそこで絶叫される言葉は変わらない。「ダンス」であれば、
ドアに背をもたせて君は鎧いおり霜月二十三日子の刻の一首をぽんと放つところから始まり、中原中也の詩「生ひ立ちの歌」「雪の宵」をサンプリングしつつ二日酔いの無念極まるぼくのためもっと電車よ まじめに走れの一首を叫んでおさめる。トラックは哀切な旋律をもつワルツである。このスタイルは変わることがない。
そして二十年前とまったく同じように、耽美者はざわざわしてしまう。

情念の永久運動なのかな、と思う。絶叫がスィッチとなる。格納されている風景が解凍・展開されてゆく。
ダンスのことも。原田伸雄の舞踏を見るのは初めてだ。老人がウェディングドレスを纏い、痙攣と弛緩を装う。うつくしい。叫びが同じ口の形のまま哄笑に変じ、引き攣ったまま赤ん坊の泣き声になる。その裏表のなさ、きれいはきたない、きたないはきれい。エロス・タナトスを同じ手で触れる、それは舞踏のステロ・タイプな表現なのかもしれない。身体の振れ・捩れ・攣れ・弛緩。
何もかもがぐるぐるになり(バターになってしまうのかも)、溶け出す身体表現と情念の永久運動…耽美者はこれが多分(?)スキなのだな。しかしこれによって何かが起動されるかというと、違うのかもしれない……なにかのノスタルジーに過ぎないのかもしれない。しかしノスタルジーとはなんだろう? …エロスだな。
耽美者が“ざわざわする”というのは、かつてこの絶叫を聴くことで享受した悦楽が想起されるということに過ぎないのかも。…ループしてしまった。ちょっと、棚上げする。

福島泰樹短歌絶叫
西村 多美子,福島 泰樹
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吉井和哉 Dragon head Miracle tour (Zepp Tokyo)

2008-02-27 00:55:25 | 漂流的視聴録
これは現前(いちいち断るあたり…トホホである…まー気にするな! ←誰にともなく)。ヨレヨレになって帰宅したトコロである。44歳花粉症の女にライヴハウス1Fスタンドはキビシイのであるがしかし、顔は笑っちゃっているんである…。だって楽しいんだもん。
先週俄かに花粉症が劇症化し(どうも花粉めは耽美者の体内で雌伏の日々ののち、満を持して臨界点を超えやがったらしいのだ)、ヨレヨレになっていたところへもってきて、強風の日曜日に中野くんだりまで師匠のライヴを観にいって(精神の)暴風に吹き曝されたについでに風邪をひきこんだらしく、昨日から発熱していた耽美者なのだが(…無駄に長い文脈である…すみませんねどうも)、昨日は極悪に仕事を切り上げ(同僚の皆さんにご協力いただいた…ありがとー)て定時に上がり、ついでのことにRの夕飯も放棄、弁当をあてがい、ドーピングして9時間眠り気合いで治したとも!

てな訳で本日も仕事を定時で切り上げ、Zeppである。今回のツァーはコレ一日しか取れなかったので、気合も入ろうというもの。地方にこそ行かないのだが、ソロになってからの東京・神奈川のライヴはほぼ行っている、と思う。耽美者はTHE YELLOW MONKEY に関してはまったくのところ“遅れてきたファン”なのであって(ちなみに略しては呼ばない…吉井和哉が略さないからである…耽美者は忠犬のよーなファンなのでw)、転げ落ちるよーにスキになったのが活動休止した後だったんである…初めて生で観たのは解散発表後の東京ドームだったりなんかする。ただでさえ周回遅れなので、観られるものは観ておきたい。

耽美者は評論家ではないのでコレはレポートなんかではなくて、自分のためのただの思い出語りである(ごめんなさい)。
中盤で、YOSHII LOVINSON 名義のシングル“トブヨウニ”のC/Wだった“BLOWN UP CHILDREN”をやった。耽美者はちょっとアメリカ中西部の匂いがするこの曲がCD聴いた時からスキなのだが(まーそもそも“スキでない”曲が存在しないのだが…)、初めてライヴで聴いたのは吉井和哉の名で始めた最初のツァー(だったと思う)で、やはりZeppだった。
その前の年、2005年の7月2日今はないNKホールでのライヴのチケットを耽美者は初めて取っていた。ソロで活動を再開してからの初めてのツァーで、耽美者はそもそもライヴに通う行動様式を持ち合わせない人間だったのだが、どーも愛は性質を超克した(?)のだな。初めてのライヴで、楽しみでもあり怖くもあった。その年、耽美者の父親は末期の癌を闘っていた。大学入学と同時に家を出て東京で就職して結婚しさらに離婚したりなんかして、そういう耽美者の生活のラインと父親が交差することはあまりなかったし、たまに帰れば激突する親子関係だった。愛されていることは知っていたが、疎ましかった。7月2日、ライヴ当日の未明、父は死んだ。未だに多方面に内緒だが(当たり前だ)、その夜のライヴに耽美者はRを連れて行った。だってその日のうちに帰っても父が生き返る訳ではない。
初めてのライヴはただ楽しかった。次の日の早朝、新幹線に乗った。
それなりに悲しく、しかしその後の生活で耽美者は父のことを思い出したりはしなかった。父との関係は、自分の中で終わっていたのだし。
その初めて聴いたZeppの“BLOWN UP CHILDREN”で、耽美者は死んでからほとんど初めて、父のことを思った。

馴れ馴れしい口調で語りかけてきた
「これは愛だ」と「あなたのため」と
I CAN'T GET NO "SATISFY"
ハッタリばっかで
(BLOWN UP CHILDREN)

父はそういう人だった、とまざまざと思った。 アイキャントゲットノーサティスファイ! 報われることの少ない人だった。満足の少ない人だった。私生児で、淋しく育ち、家族をつくるそのことに執心した。その心に報いない娘だった耽美者だからわかる。そういう人で、そういう人生だった。
Zeppだったからかもしれない。波止場に向かうあのロケーション。父は外国航路の船員で、船が日本の沖合に停泊する長期の休暇には、家族は打ち揃って(めかしこんで)港へ会いに出かけた。耽美者は海が怖くて、大嫌いだった。
子供は親の心には決して報いない、そういうものだと娘だった耽美者は知っている。息子Rを見ていてもまざまざと思う。その連鎖で、それが希望で、光で、絶望と裏表のコインなのだ。
初めて父を思い出して、そのことのために泣いた曲なのだった。
今夜もその記憶が輻輳して、やっぱりちょっと泣いてしまった。

これは自分が書いておきたかったので書いた。自分メモにしては長かったか(苦笑)

アルバムで叩いているドラマー、ジョシュ・フリースのドラムがホントに良くて目の覚める思いがした。音が大きいのにクリアで、ビートに乗るこちらのステップの精度があがる感じ。

トブヨウニ
YOSHII LOVINSON
EMIミュージック・ジャパン

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耽美主義者のスカーレットの誓い(剽窃)

2008-02-11 22:29:03 | 漂流的視聴録
タイトルは最近苦し紛れなのでお気になさらず。
薔薇がなーくちゃー、いーきーてゆけーないー(by ムーンライダース)いやそれほどでもなくってよ、などと歌いながらも耽美者の鬱窮まる。記述内時間2月8日、てな書き出しでかなーりの長文を書いてうっかり全部消してしまい、すっかりやる気喪失の耽美者である。そのように滑落してゆく日常(相も変わらず)なのであるな。
まあそんな訳で耽美者的にはやっとこさの週末ええ2月8日金曜日ですとも、しかし朝からRと揉める(イヤ揉め事にもなりゃしないのだが)。
Rの学校、火曜と金曜はカリキュラム上一時間目がない。なので金曜日は8時過ぎに出れば間に合うわけなのだが、これが妙な陥穽なのであって、この男何故か耽美者が声を掛けないと起きない。携帯アラーム、目覚まし時計は彼の敵ではない。…それでもって、早く出たいから6時に起こしてなあんて指令まで寄越す。起こすとも。起きだしてきたR、朝食を一通り食って二度寝。ええよくあることですとも。それでもって勢い余って遅刻(欠課)どころか欠席したこと何度か。耽美者が家を出るのは7時半である。こちらが家を出る前に追い出さねばならん(オブセッション)! 声掛けること10回。「早く行くんじゃなかった?」「…やっぱいい」耽美者切れる。ええ、大したことぢゃないともさ。しかし耽美者はもーだめだ、耽美者の器は本栖湖よりちょっと広い程度なのだ、オマケに浅いからすぐさざ波立つんだYO!
「おかーさんはあなたが家を出るまで会社に行かない」
「はあ?」
「だからあなたが起きてここを出るまで動きませんから」
「かーさん…意味わかんねえ」
「分らなくて結構!」
「と・に・か・く・さっさと起きてガッコ行け」
R釈然としないカオのまま出てゆき、耽美者は遅刻したとさ。分かってもらうことなどないわい。ある意味捨て身の攻撃。そんなお馬鹿すぎる週末の朝、心も凍てついてしまうんである…。

ところで、ここまで書いて中断(草稿保存)し更に書き継いでかーなーり長文(またしても)にしてアップしようとしたらログイン画面になり…消えたorz 本日二度目のデリート。半日も待ってはくれないんだなgooブログ編集画面は。…お付き合い考えさせていただこうかな…。どうでもいい長文だったんだな…もう書けないYO!

気を取り直して。
そんな訳で耽美者的にはやっとこさの週末、よれよれと帰宅。とはいえ耽美者の仕事は現在、ありていに言って閑。貧乏性というよりは仕事スキルに全く自負心が持てないので、閑なのは辛い。仕事クレ、ぢゃなくて仕事創れ自分! と自らを鼓舞したところで週日アップ。
偶々つけたテレヴィで実写版「デスノート」(後編?)を放映していて、途中からではあったが最後まで観る。原作も殆ど読んでいない(Rが読めというので1巻は読んだ)ので、比べてどうこうという感想はないのだが、ともかくも映画版の主人公は生存価値を二元論に割り切るシンプルすぎるキャラクター造形で、まあそれが権力というか、自らが優勢に立つためのマウンティングにしか見えない(多少複雑なフリルのついた)チェスゲームのゆくたてに沿って動かされるのみ。膨らまない、実にシンプルな男の子の世界なんであるな。松山ケンイチくんが若干得したのも致し方なし。耽美者的にはそのような物語世界はともかく、藤原竜也がやけにオッサン臭く見え、哀しかったのである…。でんでん趣味ではないのだが、藤原竜也ほど「少年俳優」という呼称が嵌る俳優はいないと思っていて、セオリー外した丸顔(すみません)ながら、涼やかな眼差し、よく徹る声、舞台映えする立ち姿、なによりあの天然誑しというか邪悪(腹黒)そうな感じ、まさに「花のような」少年(という歳ではないと思うが)だと思っていたのだ。ただの加齢臭…?(身も蓋もない)装う要素が少ないだけに男の美は移ろうものなのだな。
で花のような、といえばなのだがやはりでんでん趣味ではないんだけれど、市川海老蔵が耽美者にとってはそうで、見るたびに「圧倒的な美というのは“趣味ではない”ことからも逃れられるのだな」という妙な感慨が齎されたもんである。ぐりぐりした金壺眼、スキンヘッドの後ろ頭の完璧な丸み、太い茎からにゅっと咲いた花首。まあ花みたいな男だこと、と思ったもので、まさに顔が性器(いやいや、ごめんね年増っぽくて)といいますか、まあそんなもんに換算しやすい花のかんばせ。
五年位前だったかGINZAという雑誌の創刊号で、バレエ・ダンサーのウラジーミル・マラーホフと絡んだグラヴィアがあって、光源氏とフォーン(牧神)に扮したコスチュームもん、ギャルソンのシャツを纏ったもの、どれも天上的にも腥くも見え、てらてらと蛇のよーで、傷のない美しさに見蕩れた。耽美者の昔語りであった(笑)。まあ趣味的には「美に傷以外の起源はない」(ジュネ)なんですがね。

体重推移。1/31@-0.8kg。…推移しない…(苦)

耽美主義者はうつくしい歌をうたわ(え)ない

2007-01-22 00:39:41 | 漂流的視聴録
ハレー、とゆう感じのまことに穏やかな昼下がり(ト書いている今は9日早朝なんであるが…ずれてゆく現前よ、滑落する日常よ、とゆうわけである)気がつけば松の内も過ぎているではないか、という訳で今更のよーに寒中見舞いをでっちあげてプリントアウト。昨年母方の祖母が大往生したので親族間での賀状のやりとりが今年はなくて、下さった賀状の返事として書くとかなーりいつもの年より枚数が減る。整頓整頓、と呟きつつホント惰性で手を離さない、てのは良くないと思う。真っ当すぎて馬鹿みたいだけど。とはいえ賀状を貰わなくてもこちらが執着している(のだなあと苦笑する、コイツには出すのだ、と力んでるとこみると)相手には出したり、するのだ。

とゆう訳で好天の空を見つつ(耽美者の部屋は東向きに大きく出窓が張り出しているので)ラジオを流しつつ、しばし葉書かきに勤しむ。ラジオは殆どJ-WAVEなのだが、理由はあんまり騒々しくなく、苛苛しないから(この苛苛する、というのが耽美者の性格的特徴<ちなみに死んだ父親そっくり>で、コレが故に悪口雑言をほぼ特技の域に磨き<?>、受けを狙うコトで棘棘しい性格に多少クッションを敷いて生き易さを狙ってきた訳である…成功してるかどうかは知らん)。
とここまで書いたところでさらに時間経過にして…プティット・マドレーヌが消化吸収された揚句排泄されきったくらい(笑)、寸断された時の谷間で途方に暮れる(と意味なくポエティックになってもみる)。まあともかく今現前は1/21だったりはするのだが、このままゆくことにして(やってるコトがホームページの日録のときと変わらないのだが…所詮ヒトはそう変われるものではないのである)、投函しにゆくついでにポストを覗くと、ひらり冊子小包が届いている。
耽美者は「月光の会」という現代短歌の団体に名ばかり所属していて(現在まったく詠んでいない)、同じ会の方から歌集が到来したんである。
耽美者よりかなり年下のひとなんだが共通点があって、それとゆうのは耽美主義者(笑)であることと下の名前が同じなこと。まったく種類の違う苗が同じ土壌に植えられて同じ水を貰い、片やすくすくお育ちになったのをナンか足りなくて病気に罹った苗が眩しく見ている、てな感慨がある。耽美者が5年間(5年短歌を詠んでいない)寝腐れている間に2冊目の歌集を刊行された。
うつくしい短歌群である。緩やかな連作でもあり、ある世界観に統べられて言葉が統御されている。歌謡的でもあり、硬質なフォルムもある。つまりうつくしい。
終末が、滅びが、愛の腐食があってもそれはうつくしく、死(タナトス)は夭折(わかじに)の美貌であらわれる。
携帯がツールになって俄かに湧いてでたカンタン短歌とやらではなく、平板な呟きのショート・ソングでもない、うつくしい短歌。

耽美者にとって短歌は柱であってフォルムである。31音の連なりは1行(1柱)でがっつりゆきたい。
ところが耽美者は途方に暮れるようになった。うつくしくは歌えない。眼を開ける度にこの世界は醜い。きれいはきたない、きたないはきれい。そうは言っても耽美者を含んだこの世界はいかにも醜い。言葉ははしから毀れる、ばらけてしまう。これをうつくしいフォルムに彫琢することは、出来ない。ばらけるままに茫然とする。
荒んだ耽美者の言葉たち。

先述の方と耽美者は「似ているような、まったく違うような」と評されたことがあるのだが、違ったのだな。その異を耽美者なりに消化できればいいかなと思う。
(中年期になって、そもそも夭折ということをモティーフにできなくなった…単にトシのせいなのか<笑>)
この歌集は無論書店で買えるので、タイトルを紹介しておく。
『Too Young To Die』(うつくしいタイトルだ)
松野志保・著  風媒社・刊 (ISBN 978-4-8331-2062-3)