イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

双子のAzzurrite(アズライト)のフレスコ画 ーSanta Croce, Firenze

2020年10月13日 18時12分56秒 | イタリア・美術

さて、昨日San Lorenzo(サン・ロレンツォ教会)のAzzurrite(アズライト)で描かれたフレスコ画の話をしたが、実はFirenze内にもう一つ全く同じ絵が描かれた場所が有る。

Santa Croce(サンタ・クローチェ教会)の

Cappella Pazzi(パッツイ家の礼拝堂)の中。

写真:Wikipedia
のScarsella(スカルセッラ)の天井。

ここ。ってこの写真じゃ暗くて分からないね。

ズーム!!これ。San Lorenzoに比べてこちらは半分しか残っていない。
サンタ・クローチェ教会は、アルノ川のそばに立っているため、湿気が半端ないせいだろう。
さすがに度重なる洪水のせいではないだろう…

サン・ロレンツォの丸天井に比べて、こちらの方が若干小さいのだが。
建物の建築に携わったのは、どちらもBrunelleschi(ブルネレスキ)だが、こちらのフレスコ画は誰が描いたのかはっきりしていない。
しかし何で同じものが描かれているのか?
それは謎。
1.いつの天体を描いたものなのか。
2.どんな歴史的な出来事が有ってその日が選ばれたのか。
ここまでは昨日と同じ。
更にもう1つ
3.何で同じフレスコ画が異なる宗教施設内に描かれたのか。

1423年サンタ・クローチェ教会は火事になり共同寝室部分や図書館が焼失した。
それを修復する費用を出したのはフィレンツェとお金持ちの数家族だった。
Medici(メディチ家)、Spinelli(スピネッリ家)そして Pazzi(パッツィ家)
中でもAndrea de' Pazzi(アンドレア・デ・パッツィ)は1429年には既にsala capitolare(司教座聖堂参事会員室)の修復を任されていて、その裏側には自分の家の礼拝堂を作っていた。のちにこれがパッツィ家の礼拝堂になる。
記録がほとんど残っていないため、いつから修復が始まったのか正確な年月が分からないのだが、1429年には既に始まっていただろう。というのもこの年はブルネレスキがサン・ロレンツォ教会のSagrestia Vecchia(旧聖具室)を完成させ、パッツィ家の礼拝堂に着手する。
莫大な費用がかさんでいたため工事はのらりくらり。1442年から1446年はなんとか進んでいたらしいが、1445年アンドレア・デ・パッツィは死亡、翌年未完のままブルネレスキも死亡し、工事は再び一時中断。
1470年以降はGiuliano da Maiano(ジュリアーノ・ダ・マイアーノ)他で完成へと向かった。
Cupola(丸天井)が完成したのは1459年。
当然フレスコ画はそれ以降。Pesello(ペセッロ)は1446年に死んでいる。
1478年、まだ外のportico(回廊)の工事は終わっていなかったが、翌年工事は中断。
なぜなら1479年所謂Congiura dei Pazzi(パッツィ家の陰謀)が起こったからだ。

昨日の話に付け加えるとしたら、メディチ家は既にフィレンツェの覇権を握っていたが、1442年Renato d'Angiò(ルネ・ダンジュー)がフィレンツェを訪れた時、ルネはメディチ家よりパッツィ家と個人的に仲良しだった。
十字軍派遣と戦争への協力を求めに来たルネだったが、Piero Pazzi(ピエロ・パッツィ)の息子の洗礼に立ちあい、この子はルネの名を取ってRenatoと名付けられている。
このあたりの関係がフィレンツェがルネに味方し、ヴェネツィア、アラゴンと共に、ルネを支援することにつながったという。

とはいえ、例えルネ・ダンジュ―がフィレンツェを訪れた歴史的イベントを記念してこのフレスコ画に描かれたとしても、1442年7月4日ではないんだなぁ。
この時代、空の様子を描くことは決して珍しいことではなかったが、全く同じものをそうも離れていない場所に描くというのは聞いたことがない。
はて?なんなんでしょうね。

ちなみにパッツィ家の礼拝堂の壁には12個の大きなテラコッタのメダルがかかっている。

Luca della Robbia(ルカ・デッラ・ロビア)作の「キリストの12人の使徒」
このメダルの上には

 帯状彫刻にCherubini(ケルビム・智天使)と子羊。
子羊はあがないの象徴であり、Arte della Lana(フィレンツェ羊毛業組合)のシンボル。
丸天井の四隅には4つのテラコッタのtondo(円形彫刻)

4人の福音者。こちらは天使と一緒だからMatteo(マタイ)ね。
これもルカ・デラ・ロビア(?)もしくはブルネレスキ自身がデラ・ロビア工房に任す前にデッサンを書いたか?とも言われている。
メダルの下はパッツィ家の紋章。

このスカルセッラに祭壇はあるけど(Donatello派)、その祭壇画も彫刻も何もない。
これ、ブルネレスキの好みでステンドグラスに祭壇画や彫刻の役割をさせようという考えらしい。
デッサンはAlesso Baldovinetti(アレッソ・バルドヴィネッティ)で、下の長方形はSant'Andrea (サンタンドレア) 、上の丸いのは Padre Eterno (全能の神)
Sant'Andreaのメダルは、回廊の入り口の扉の上にも有る。

参考:https://curiositasufirenze.wordpress.com/tag/emisfero-celeste-sagrestia-vecchia-san-lorenzo/



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4 コメント

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こちらこそ!! (fontana)
2020-10-15 10:06:29
山科様
こちらこそいつもありがとうございます。
拾い読みしていたので、フランス語からとは知りませんでした。道理で微妙にニュアンスがおかしかったんですね。

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ありがとう (山科)
2020-10-15 07:08:26
原文 御確認ありがとうございました。
中村訳の原本はフランス語訳ですから、
Azur d'Allemagne (ドイツ青)になっていたんでしょう。
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銀山の周りとあります。 (fontana)
2020-10-14 10:48:05
山科様
コメントありがとうございます。
チェンニーニの原文を確認しました。
確かに「銀山の周辺や(銀山を)取り囲んだ場所」に有ると書かれていました。
チェンニーニはアズライトをAzzurro della Magnaと言っているのですが(私が見た中村 彝他の「芸術の書」には理解不能な「アジュール・ダルマーニャ」と有りますが、どうしてこういう読みになったのか理解できません。)
、このMagnaがローマ帝国の支配を受けていない「大ゲルマニア」のことだと初めて知り、原文に目を通す重要性を改めて実感しました。
ちなみに南イタリアのギリシャ人が多く入植した地域はMagna Grecia(大ギリシア)なのですが。
他の部分も原文に少しずつ目を通しています。
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同じ (山科)
2020-10-14 05:47:52
ほんとに同じですね。当時の流行だったのかな。サンタ・クローチェはアルノ川の大洪水のとき大被害受けてましたからね。
礼拝堂というのは要するに一族の墓ですよね。日本の仏寺に葬式佛教と悪口いう欧米人がいますが、カトリックの聖堂が墓の集合体みたいなことは、欧州にいったときはじめてわかり、なんだどこも同じじゃないか、と感じたものです。

ところで、アズライトが「銀鉱山」からでるというのは、日本語訳のチェンニーニに書いてあったので、憶えていたみたいです。翻訳が正しいのかはわかりませんが。現実には、銅鉱山のほうがより正しいようです。ただ、銀山は色々な鉱物が併出することが多いので銀山からも出るのかもしれません。
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