哀裸舞―短的生命―

境界性パーソナリティ障害・うつ病等、病人生録。ダーク系が多々含まれています。苦手な方はお戻り下さい。

【超長文】長い話【序曲】

2007-10-08 00:44:32 | Weblog
『はじまりは春、サクラと共に-』

1984年(昭和59年)4月、私はこの世界に生まれた。地球という大きな、でも小さな星、緑の豊かな、真っ青な空と白い雲と優しい風と、何もかもが美しくキレイだと思った。赤ちゃんでも空気の味はしっかりと分かっていた。

もしも私がいなくなったら・・・なんてことを考えた。それはもう少し大きくなってからだけど。従姉妹と泣いたおじいちゃんの、生命の死。そして知ってしまった汚れた世界。従姉妹も私も友達も、みんな感じたはずのコト。全ては宿命だと、思いたくもなかった現実。

それでも生きていくうちに変わってゆく自分がいた。どんなにキレイゴトを言っても、いつかは変わるというそれでも生きるということ。

慰めあったところでどうしようもない。でも、それはそれで救われるからさ。だから今もこうして記すことのできる過去と現在(いま)があるんだ。

うれしくてもかなしくても、生きていれば涙を流す。

それを実感して生きてゆければと・・・



さあ、思い起こしてみよう。私の20年間。

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空が青かったから、私は笑顔を覚えた。

太陽が赤かったから、私はあなたが見えた。

風が優しかったから、私は歌を覚えた。

すべてのはじまりは あの日から・・・

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第1章 音楽との出会い

【ピアノのレッスン】

 2歳の頃だったらしい。私はいつも姉の邪魔をしてピアノに手を触れていた。その響きは何となく心地よかった。歌も唄いはじめたのもこの時期だったらしい。おもちゃのマイクを手放さずにいたってさ。

 4歳になってから、お父さんがピアノのレッスンに通わせてくれた。でも、その頃はやる気なんてなかった。先生は怖くて家でも弾かせてもらえなくて・・・。10年通ったけど、身についたのは本当に基礎だけかもしれない(笑)

 それでも学校に入ってからは、伴奏者として、いつも音楽と触れ合っていた。

 私のモットーは昔から変わらない。「心」を入れるコト。下手でも・・・、笑われたっていい。私の「心」はきっと伝わる。伴奏者でも想いは同じだった。

 中学の頃、合唱コンクールではじめてステージでピアノを弾いた。下手な私は、練習の時に失敗ばっかりで、クラスメイトにため息ばかりつかれていた。それでもやっぱり想いとは強いものだ。本番は失敗なしで、みんなも喜んでくれた。賞こそはとれなかったけれど、「役に立てた」気がした。

 14歳でピアノのレッスンをやめた。大きくなるに連れて月謝も高くなるし、やることも増える。でも今思うと、やめたのは、ただ「やる気」がなかっただけだよな(笑)

 でも役に立ってるんだ、今も。楽譜が読めるし、暇な時にも弾ける。まぁ、手が悪くならなかったらもっともっとハマったかもしれないけれど。

【合唱団】

 小学校5年生の頃、新しい音楽の先生が来た。とても活発で、吸い込まれそうな女の先生だった。学校なんてつまんないって思ってた時に先生は合唱団というものを作った。その名の通り歌うんだけど、音楽の時間に合唱団に入れさせる子をテストしながら探していた。私が選ばれたのは、うれしかった。唄うこともそうだけど、後に語る初恋の相手もいたからだ。

 合唱団は主に、イベントの時に、ステージで歌った。「野に咲く花のように」(当時放送されていたドラマ「裸の大将」の主題歌)が一番印象に残っている。ピアノ伴奏をしながらよく歌った。本番の伴奏者は優秀なKちゃんだったけど。何よりも唄うことが大好きだった私は、合唱団の時間が楽しかった。


【トランペットとテナーサックス】

 小学校4年生になって、私は鼓笛部に入った。空いている楽器が少なかったため、私はトランペットをやることになった。早速家に帰って、お父さんにマウスピース※1をおねだりした。内緒で入ったから、当時の5000円という数字がお父さんには痛かったらしい。(理由はナゾ)それでも、音楽好きなお父さんは照れながら買ってくれた。

 次の日から練習が始まった。はじめは音源であるマウスピースで「ドレミファソラシド」を出す練習。先輩は厳しかったけど、丁寧に教えてくれた。早いのか分からないけど、1日で吹けるようになった。次の日からトランペット本体を使って音を出す練習。これがなかなか難しくて、「ドレミファソ・・・」とか弱い音になってしまう。音を高くするにつれて、金管楽器は唇を細めてゆく。人それぞれマウスピースの当て方が違うのも面白いところだった。ちなみに私は左よりだった(笑)

 1ヶ月もすれば、もう先輩の手は借りられない。全部自分で練習をするんだ。1年目の運動会ではすでに高いレ(1オクターブ上のレ)まで出るようになっていた。初めて演奏したのは、アニメ「キテレツ大百科」の「お料理行進曲」だったかな。他に3曲やった。



 2年目になって、私は飛び級をした。各楽器にはパートがいくつか分かれていて、トランペットは1~3パート。3パートが一番下で、2年目は1パートになっていた。(学校などによって呼び方が違うみたいだけど、本格的にやってる人たちはどう呼んでいるんだろう)基準は、高いソ(1オクターブ上のソ)以上が出る事・・・だった。そのとき私は2オクターブ上のドまで出せるようになっていた。上のパートになるに連れて、主旋律が多くなる。これが楽しかったりする。なんでかって??そりゃ目立つからさ(笑)んまぁ、私より上手な子がいてくれたから、カバーしてもらえたんだけどね♪

 トランペットは張りのある音の方がカッコいい!けど、人を癒すくらいやわらかい音も出る。私はその音が好きだった。でも先生には注意された。「元気がない!」と。



 3年目になって、木管楽器を復活させると先生が言った。下の姉とおじいちゃんが共に木管出身。だから、楽器を変えてみようと思った。私は本当は、下の姉が吹いてたクラリネットが吹きたかった。でも、テストで小指で穴が塞がらなくて落選。次におじいちゃんのやっていたテナーサックスをやってみることにした。テストは簡単。マウスピースで「ドレミファソラシド」を吹くことだ(笑)これはOK!合格した。すっごいうれしかった。その日のうちに家にTサックスを持ち帰り、おじいちゃんに報告。そしたら懐かしがったおじいちゃんは吹いてみてくれた。60歳過ぎてもすごくカッコよくて、ますますどちらにも惚れた(笑)

 実は、サックスやクラリネットは、前歯が悪いとツライ(笑)今私は密かに一本差し歯だったりする(笑)だからもう怖くて吹けない(汗)

 さて、そんなことはどうでもよくて、テナーサックスはトランペットに比べ、遥かに肺活量が要る。だから1年間で余計に息を長く、または大量に息を吐くことも…。(その割に声が出ない……)

 テナーサックスは小学校6年生と高校2年生にちょっと任されたくらいだったけれど、カッコイイんだ!首が疲れるけど、構えるとまたまた目立つ(笑)。
【音楽室は私の居場所】


 学校の中で一番落ち着く場所。それは何年経っても変わらない。音楽室だった。何故だかしらないけれど、小学校から高校まで、音楽の先生は私に音楽室を有効利用させてくれた。放課の合間を縫っては音楽室に行ってピアノを弾いたり、唄ったり・・・。高校では友達との交流の場として毎日毎日私はそこにいた。

 小学校ではベートーベンやバッハの肖像画を眺めながら、いつも明るく「ありがとう」と語った。7不思議でベートーベンの顔がどうとかあったけど、んなことはどうでもよかった。あんな有名な作曲家の霊がもし本当にいるのなら、いつでも見守っていてほしいって思ったくらいだし(笑)

 音楽室はシーンと静まり返っていてもどこからかさわやかな音色が響く。それは風の音。隙間風が私の心をいつも癒してくれた。1人口ずさむ歌も、響いていた・・・。



 これが私の音楽との出会いだった。

※1 マウスピース・・・管楽器の音源で、楽器の先にはめて、口に当てるもの。

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楽しいと 思うほど

胸が騒ぐんだよね

ドクンドクン・・・

締め付けられるほど-
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第2章 学校という場所と考える時間

○ 小学校【いじめ】

 小学校3年生から、学校内ではイジメが流行した。私は「的」になった。私がガツーン!とイジメに合ったのは、4年生。部活の先輩達からだった。そしてクラスメイトからも避けられる日々がしばし続いた。でも今思えば、クラスメイトから避けられていたと思っていたのは、私の対人恐怖症が原因だったと思う。

 でも、先輩ってのはいつでも怖いものだ。一番酷かったのが靴隠し。2週間続いた。でも、そんなことよりも、担任の先生に突き放されたのが、一番辛かった。「あなたが悪いんじゃないの?」という一言で、私は人間不信に陥った。

(ここで基本人格と主人格が入れ替わる)

 それでもまだ「考える」「悩む」ことを強く覚えていなかった私は、負けなかった。イジメてきた先輩に言い返して強く見せ、そして裏切ってきた先生とは仲良くした。そうすることで、酷いイジメはなくなった。



 私が加害者扱いされたこともあった。ただ1人の子を好きになれなくて、その子の親も好きになれなくて、そして何より、その子の家庭環境を憎んでいたから、辛くて辛くて、気がついたら私もその子を突き放していた。

 その子はヒロコちゃんと言う名前。ヒロちゃんは3年生の時、担任の先生に酷い事を言われて泣いていたのを私が先生に文句言った事がきっかけで「トモダチ」になった。何故か母親が怒りに来て(担任に対して)、そして私に礼を言った。その時は「いい人だな」って思っていた。

 でも、どこに行っても大人は汚かった。ある日、ヒロちゃんのうちに行った時の事。ヒロちゃんが大事な班長バッチを失くしたと言ったので、私は一緒に探した。そしたら母親が帰ってきて、この人も私を悪者にした。「あなたが盗んだんじゃないの?」。もうショックで、その時はすぐに帰った。泣かなかった。泣くほど「バカ」じゃないし。



 もう裏切られるのには、小学生にして慣れてしまっていた。

 サミシイ思春期が始まろうとしていた。



【部活】

 前に書いた通り、私は鼓笛部に入っていた。先輩たちが厳しい中で、音楽だけを聴き、楽譜を見つめ、乗り切った2年間。うれしいことに後輩達は私を好んでくれた。というよりも、後輩達のほうが大人だった(笑)それに私よりも成長してくれてすごくうれしかった。

 小学校6年生の時、指揮者を決めるテストがあった。私もやりたかったけれど、この頃から体調不良を訴えていたため、断念した。そして、6年生で仲良くなったミズちゃんが指揮者と部長に決まり、私は彼女のサポートをした。一緒に振りを考えたり、上に立つものじゃないけど、一緒に仕切ったりしていた。うん、充実していた。



 後に語るミーちゃんは副部長。彼女はクラリネットNo.1だった。すごく尊敬していた。んまぁ、後でじっくり話そう。



 1年おきに祭りのパレードにも出て、とても楽しく過ごした。練習が終ってからの音楽室貸し切りもよかった。ダンスパーティやカラオケして遊んだョ☆



【トモダチ】

 友達というものはやはり持つべきもの。私が女子から避けられていた理由に、男友達が多い事があった。これは仕方のない話だった。近所に女子が少なくて、よく男子と遊んでいたからだ。まぁいいんだけれど…(汗)

~5人組~

 小学校5年生~6年生の間「5人組」と呼ばれる学園ストーリーにも負けないくらいの仲良しグループができた。ミーちゃん、ダイ君、ナァ君、シン君、そして私の5人組。みんな性格は違った。きっかけは、ナァ君以外の連中で映画に行ったことだった。私とダイ君は今でも親友と呼べるくらい長い付き合いだ。ミーちゃんとシン君はラブラブだった(笑)そんな中に、リーダーシップ的存在で仲間入りしたのがナァ君。カッコよくて、頭も良くて、益せてて、口達者芸達者で、私も一時期告ったくらいの人だった。今は何しているか分からないけれど。

 5人組は授業が終るといつも誰かの家でたむろして遊んでいた。ダイ君のところは隠れ家、ミーちゃんのところは遊び場、んで私のところは…。そういえば、ナァ君とシン君のところには行った事がない!!今頃気づいても遅いが、くやしいな(汗)

 6年生になってから、6人組になった。大人気のマーちゃんが加わった。ミーちゃんもマーちゃんもモテモテだったから、私が1人、浮きはじめていた。なんてったって、私はキラワレモノやったし。

 その嫉妬感のせいか、6年の半ばで、私はグループから抜けて単独で連中と関わった。それでも仲良くしてくれたメンバーに、私はなんてお礼を言えばよかったんだろう。自分から逃げてきた気がして仕方がない。いつか逢ったら必ず伝えよう。



~ヒロちゃん~

 6年生の夏、ヒロちゃんは突然いなくなった。本当に急だった。家族と共にいなくなった。あの子の家に残ったのは、ただお兄さんだけで、その後は何も知らない。いろいろ噂が広まる中、私は先生に尋ねた。でも教えてくれなかった。

 私がココにヒロコちゃんを語るのは、再会したいから。でも、会わない方がいいのかもしれないな。


○ 中学校

【一変した私】

 小学校の頃は、大人しく、そして心がしっかりと落ち着いていて強かったと思う私。でも、中学校に入って、1年目はそれで通してみたけれど、さすがに中学生になってからは周りに通用しなかった。そう、またもやイジメの的にされたのだ。中学生にもなると、いろいろ物事をよく思いつき、実行する。そんなこともあってか、よく貶(けな)された。もちろん女子にも男子にも。それがなんだか悔しくて、2年生になったら強く一歩前に出て行動するようになった。よくしゃべり、何を言われても動じないようにしていた。ある日、私を貶していた子に、「変わったね」って言われた。それでいいと私は思った。

友達も少し変わった。ちょっとヤンキーっぽい、優しいナオちゃん。名前がかぶっていたからか、息が合った。まぁ、一回喧嘩して別れたけど、今でも仲良くしている。

【良い子?悪い子?】

 中学2年生。担任(男の先生)が嫌いだった。相手にしてくれるから、まだ楽しく思えたのかもしれないけど、時にセクハラ事件とかもあった(謎)。最低…。平気で女子に「デブ」だの「ブス」だの言って、女子をほとんど敵に回していたなんとも元気よすぎる美術の先生で、私は苗字から「ハチ」って言われて犬扱いか!?と思った。毎日担任と喧嘩。向こうはそれが楽しいらしくて。もう相手にするのが疲れていた(笑)そんな先生だったけど、美術の担当で、私のことを気にかけてくれていたみたいだった。なんといっても、ペーパーテストでいつも点数稼げるのは実技のみ(笑)歴史とか分からないからね…。それで、「お前は実技だけはいいんだけどなぁ」といつも言われていた。

 掃除当番もよくサボった。にも関わらず、すっごく先生達と話が合った。んまぁ、先生達が合わせてくれていたんだけど。ブラックリスト入り、隠れヤンキーこと一匹狼。いつの間にかそんなキャラになっていて、私の事を好む人か先生くらいにしか相手にされなかったっていうか、近づいて来なかった。これは笑い話ですね(笑)

 この頃から遅刻が更にエスカレートしていった。そして…。年間半分が遅刻と欠席で埋った。全て体調不良で親公認。後に不登校と判明するのだが…。

 中学3年生の担任はすごくいい人で、不登校がちな私の支えになってくれた。数学の先生で、帰りにも指導してくれたので、高校受験の時に助かった。(嬉)今頃何してるんだろう。

 もう1人、お気に入りの先生がいた。英語の上T。新任で入ってきたのにすごくしっかり者で、なんといっても生徒想いで、しかも職員室にいるのが嫌という先生だった。いつも会議の時に他の先生が探し回っていたのを覚えている。女子は「えーーー」って言うけど、私は上Tが好きで、元気な時は毎日遊びに行った。快く応援してくれる先生だった。

 他にもいい先生はいっぱいいた。でもいい先生ほどいなくなってしまった(汗)今頃みなさんどうしているのかな。

 部活は合唱部で、ココでも先輩ともめ合いになり、仲間割れも発生して、一時期すごくダークな部活になっていた。しかし、この時も後輩がかしこくて、助かった。私は副、ミズちゃんが部長を努めた。この時、人をまとめるのがどんなに大変かを学んだ。

【夢のはなし】

 中学校1年生の時、進路相談があった。小学校までは音大を目指していたんだけれど、中学に入って変わった。第5章でも語るんだけれど、私はいろんな夢を抱いてきた。その中でやっぱり手放せないのが音楽で、当時はバンドにハマっていたので、音大はもう必要ないと、フリーターを希望していた。そしてバンドを組むか、ソロ活動をしようと思っていた。3年間こうやって言ってきたけど、全部反対された。「フリーターはやめろ」と。

 中学3年生の文化祭で、1つの夢を叶えた。バンドでライブをやる事。ビートルズのコピーバンドをキティ先生とミズちゃんとヒト君とK君(後輩)と組んでやった。またそのときのオーディションの担当があの大嫌いなT先生で、キティ先生の顔と、私の実力試しってことでパスした。私はドラム、ミズちゃんはピアノ、ヒト君はソプラノサックス、キティ先生がギターで、後輩のK君がボーカルをやった。T先生のいたずらかキティ先生のたくらみか知らないけど、トリを努めた。私達の他に3組のバンドが出たけど、最後は更に盛り上がった!たった1ヶ月のドラマーは中学校のいい締めだった。

 こんなそんなで、私の夢は着々と音楽に染まっていった。


○ 高校生

【自由と大人の間】

 私は公立の商業高校に入学した。噂通りのギャルっぷり。(謎)入学式に、しぶしうルーズソックスを履いてみたら、案外決まってて、すごくエスカレートしていったなぁ(汗)1Mのルーズソックス履きました(笑)

 周りを見渡すと、ピアス、染髪、化粧が当たり前のようで、黒髪の方が目だっていた。私はミニスカ、ルーズ、ピアスで、黒髪のロングの隠しメイクをして通っていた。ピアスに1回注意されただけであとは何も問題ナシ。スカート丈も目立たないミニスカで、「うふふ♪」と心の中で呟いていた。明らかに私の方が短くても、検査でバレないテクニックがあったのだ。(それは秘密☆)

 そんな環境の中、やはり私は先生に会いにいく事で暇を潰して、自分の顔を売りつけていったのだが、このときはそうもいっていられなかった。高校生になると、人生の自己責任の8割がくっつく。そう、大人になるに連れて付き纏う「責任」というもの。これをどううまくやりくりしていくかが本当に悩むところだ。

 校則を守る、守らない、これも自己責任。そういう面ではまだまだ未熟な私達だった。アルバイトをすることができる年齢でも校則がダメならダメなのだ。

 うむ、本当に大人になるって難しい。相手の気持ちを理解するのも大人への一歩である。

【歌いながら考えた】

 高校に入ってもまた合唱部に入部した。だがしかし、人数が4人だけだった。合唱にはなりませんね。部長はいたけど、やることがなかったので、文化祭の内容は私が考案してみた。私とホリちゃんが歌を、先輩達がキーボードで音をという簡単なバンドを作った。メドレーやソロなどを歌った。でも1年目はよかった。先輩達のおかげでクリアできたからだ。

 2年目、私が部長になり、どうにか軽音部に仕立て上げようとしていたんだけれど、不登校が再発し始めて、文化祭が失敗に終ったのだ。私が学校をよく休むようになって、みんなバラバラになり、練習がスムーズに行かなくて、企画だけが静かに進んで行った。この時とある事を考えていた。たぶんそのせいで全力出せなかったんだ。協力してくれたみんなになんていえばいいんだろう。
(つづく)




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