中高年の山旅三昧(その2)

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歩いて巡る中山道六十九宿(第7回):第3日目(5):碓氷峠;人馬施行所から峠へ

2013年06月16日 09時35分22秒 | 中山道六十九宿

                                           <人馬施行所を過ぎて川を渡る>

[改訂版]歩いて巡る中山道六十九宿(第7回):第3日目(5):碓氷峠:人馬施行所から峠へ
           (五十三次洛遊会)
       2012年10月12日(金)~14日(日)

※本稿の初出は2012年11月8日である.
 初稿の誤字脱字転換ミスを訂正し,本文の加除修正を行った

2012年10月14日(日) (つづき)

<碓氷峠地図>  (再掲)





<まごめ坂から山中坂へ>

■入道くぼの馬頭観音
 栗が原で昼食を終えた私達は,12時50分,再び歩き出す.
 何時の間にか,私達は随分と高いところまで登ったらしく,樹林の切れ目から上州の山並みが垣間見えている.ただ,私には土地勘がないので,どこの山が見えているのか良く分からない.
 13時25分,「入道くぼ」という所に到着する.道から少し離れたところに,大きな石塔が立っている.
 石塔の近くにある案内板によると,昼食後,私達が登ってきた赤土だらけの上り坂は「まごめ坂」という所だった.また,ここにある石塔は線彫の馬頭観音だと書いてある.

<入道くぼの馬頭観音>

■山中茶屋跡
 13時19分,山中茶屋に到着する.空き地の奥に建物が見えているが,この建物が山中茶屋に関係があるかどうかは分からない.
 空き地の入口にある案内板によると,山中茶屋の位置は,「峠」の丁度真ん中だと書いてある.何処から何処までを「峠」というのか私には分からないので,何とも言えないが,地図を見ている限り,旧国道18号線入口から,群馬県と長野県の県境までの距離の優に半分以上を歩いている.
 案内板の記事によると,この山中茶屋は慶安年中(1648年から)に峠町の人が川水をくみ上げるところに茶屋を開いた.そして,寛文2年(1662年)には13軒の立場茶屋ができた.寺もあって茶屋本陣には上段の間が2箇所あったという.また,明治の頃小学校もできたが,現在は屋敷跡,墓の石塔,畑跡が残っているだけである.


<山中茶屋跡>

■山中坂
 山中茶屋から子持山山麓を陣場が原に向かって登り続ける.
 道端の案内板によると,この山中坂は別名「飯喰い坂」とも呼ばれていた.その理由は,空腹のままではとても登れないので,手前の山中茶屋で飯を食ってから登ったからだという.

<山中坂>

■こんな所に廃バスが・・・
 13時28分,緩やかな登り坂の進行方向左手の土手の上に廃バスがあるのを見付けて,大変ビックリする.
 この辺りは,確かに道幅も広がっていて歩き易いが,とてもバスが通れるような道ではない.どこかにバスが通れるほどの道があるのか大変興味をそそられる.でも,そんな詮索は私達中山道の旅の本筋から外れるので,ビックリしただけで通過する.

<こんなところに廃バスが・・・>

■一つ家跡
 緑に覆われた心地よい道が続く.なだらかな道である.
 13時34分,一つ家跡を通過する.辺りには遺構のようなものは何もない.ただ小さな案内板が立っているだけである.案内板には,「ここには老婆がいて,旅人を苦しめたと言われている」と書いてある.何をどう苦しめたのかは書いてない.

<一つ家跡>

<子持山>

■陣場が原
 13時40分,陣場が原に到着する.例によって少し汚れた案内板が立っている.
 この案内板には次のようなことが書かれている.「太平記に新田方と足利方のうすい峠の合戦が記され,戦国時代,武田方と上杉方のうすい峠合戦記がある.笹沢から子持山の間は萱野■(読めない)でここから古戦場といわれている.」
 後ほど,陣場が原の戦いについて,インターネットで調べたが,この案内板以上の情報は今のところ得られていない.
 ただ,資料6には,中世に至り,「応永30年(1423年)の国人一揆や永享12年(1440年)の結城合戦では,碓氷峠は信州からの侵攻を防ぐ要衝となっていた.永禄4年(1561年)に長尾景虎が小田原城の後北条氏を攻めた際に武田信玄が笛吹峠に出陣し,信玄は碓氷峠からの進出をその後数回にわたって行ない,永禄9年(1566年)には箕輪城の攻略に成功して上野国へ進出した.天正18年(1590年)の小田原征伐の際,豊臣秀吉は前田利家らの北国勢を碓氷峠から進軍させている.」という説明がある.

<陣場が原>

■万葉集の歌の紹介
 陣場が原の案内板のすぐ先に「子持山」の案内板が立っている.この案内板には,
  万葉集巻第十四東歌中 読人不知
    児持山若かえるでの
          もみづまで
       寝もと吾は思う
           汝はあどか思う
                 (三四九四)
と書いてある.万葉集のことなど殆ど分からない私には,歌の真意など理解困難である.


<子持山>

<笹沢から峠へ>

■明治天皇行幸道との分岐
 13時44分,明治天皇行幸道と旧中山道の分岐で,どちらを歩くか少々迷うが,私達の旅の目的から,当然,左側の旧中仙道道を選ぶ.
 写真の右が明治天皇行幸道である.私辰は少々薄暗い中山道道に入る.

<明治天皇行幸道を分岐する>

■化粧水跡
 旧中仙道に入ると,道幅が幾分狭くなり,再び山道らしくなる.辺りは薄暗い森になる.
 13時55分,化粧水跡に到着する.「峠町へ登る旅人がこの水で姿,形を直した水場」と書いた案内板が立っているが,どこがその跡かは一寸見では良く分からない.

<化粧水跡>

人馬施行所跡
 化粧水跡からさらに先へ進むとますます深山幽谷の趣が深まる.
 13時58分,人馬施行所跡に到着する.谷沿いの崖に案内板が立っている.案内板によると「文政11年,江戸呉服の与兵衛が,安中藩から間口17間,奥行二十間を借りて人馬が休む家を作った」という.

<人馬施行所跡>

■笹沢を渡る
 人馬施行所跡から笹沢に下る.笹沢には橋がない.この先どうなるか少々心配になる.立ち止まって,このまま進んで本当に大丈夫かを確かめる.手許の資料や地図で再確認するが,このまま進んでも大丈夫だと確信する.
 私は内心では,
 “もしダメなら先ほどの明治天皇行幸道まで戻れば良いな”
と思っている.
 飛び石伝いに笹沢を渡る.


<笹沢を渡る>

■長坂道を登る
 笹沢を渡ると,人一人がやっと通れるほどの狭い山道になる.上り急勾配の心細い道を登り続ける.足許もかなり悪い山道の連続である.
 こんな道が30分ほど連続する.やがて,前方に尾根が見え始める.
 「上の方に尾根筋が見えていますよ・・・あの辺りで峠道になるでしょう」
と同行者に話す・・・というよりも自分自身に言い聞かせる.
 14時18分,「長坂道」の案内板が立っているところに到着する.案内板には「中山道をしのぶ古い道である」と書いてある.


仁王門跡
 長坂道の案内板を通り過ぎてすぐに三叉路にでる.
 この三叉路で,どちらへ行くか迷う.左手の道には「800メートル先行き止まり」と書いてある.右手200メートルほど先に赤い幟旗のようなものが見えている.軽井沢の方向は左側,でも幟旗の方がどうやら正解のようでもある.
 私は大いに迷う.
 こんなとき,ポチモードが再開する.
 Aさんが,
 「ちょっと,様子を見てきます・・」
と幟旗の見える右側の道へ偵察に行く.そして,
 「こっちです・・・」
と手を振って合図する.
 “助かった・・・!”
 14時25
分,私達は無事に峠の仁王門跡に到着する.向かって左手からは明治天皇行幸道が合流している.
 仁王門跡には大木は石柱が立っている.その脇の案内板には,「もとの神宮寺の入口にあり,元禄年間再建されたが明治維新の時に廃棄された 仁王様は熊野神社の神楽殿に保存されている」と書いてある.
 ここで,横川を歩き出したときに出会った男性と再会する.
 「皆さん,随分と足が速いですね・・」
と男性が言う.
 男性に伺うと,彼は明治天皇行幸道を経由してきたが,疲労困憊しているという.男性と暫く雑談する.

<仁王門跡>

<峠に到着>

■思婦石
 14時26分,仁王門跡近くにある思婦石に到着する.近くに鼻曲山への案内杭が立っている.この辺りからは公園風に整備されていて,観光客の姿も増え出す.
 思妻石の案内板には,「群馬郡室田の国学者関橋守の作で安政4年(1857年)の建立である.
    ありし代に
       かへりみしてふ
            碓氷山
    今も恋しき
       吾妻路のそら

と書いてある.

<思婦石とその周辺>


<思婦石>

■力餅「あずまや」
 14時29分,力餅「あずまや」に到着する.
 私達はようやく観光地「峠」に居る.周囲には観光で訪れている人達が沢山居る.ここまで来れば,いざとなったらバスで軽井沢に出ればよい.気が楽になる.


■熊野神社前のバス停
 辺りを見物しながら,バス停の方に移動する.勿論,私達はバスに乗るつもりはないが・・・
 さきほど出会った男性が,丁度到着した軽井沢行のバスに乗車している.
 私達は,これから,暫くの間,熊野神社など,この辺りを散策してから,旧軽井沢に向かうつもりである.

<峠のバス停>
                                      (つづく)

 [参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;安中市産業部商工観光課「旧道日和;旧中山道碓氷の峠越え道」安中市観光協会
資料6;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A2%93%E6%B0%B7%E5%B3%A0

[加除修正]
2013/6/16  誤字脱字転換ミスの訂正と,本文の加除修正推敲を行った.

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/5b663842b736b41c2123c27fb5563d98
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b74a5bec19d2b4c258f3f9b2741b34b3
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e


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