中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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善光寺西街道;第3回;第2日目(6);川中島古戦場周遊;典厩寺と胴合橋

2015年07月17日 04時51分05秒 | 善光寺街道・善光寺西街道

                          <千曲川サイクリングコースを上流に向けて歩く>

 善光寺西街道;第3回;第2日目(6);川中島古戦場周遊;典厩寺と胴合橋
            (五十三次洛遊会)
       2015年6月26日(金)~28日(日)   

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http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/7295072dce8626c92acd470efe6a864f

第2日目;2015年6月27日(金) (つづき) 晴・猛暑

<ルート地図>

■川中島古戦場ハイキングコース

※再掲

<千曲川沿いのサイクリングコース>

■八幡原史跡公園から千曲川堤防へ
 14時57分,ガイドの長い説明がやっと終わる.
 タイムキーピングをしている私は,正直なところ,ヤキモキしながらガイドの説明が終わるのを待っていた.
 “さて,もう15時か!…予定のコースを廻るのは,時間的にちょっとムリカナ…”
とも思ったが,今は日が長い時期だし,暗くなる前に間違いなく長野へ帰れるなと思った私は,
 「では,予定通りのコースでこの辺りを一回ししましょう…」
と一同を促す.
 まずは,千曲川の堤防に登ってから,千曲川左岸沿いに上流に向けて歩く.しして典厩寺付近で折り返すつもりである.帰路は堤防下のクネクネした道を通って,バス停川中島古戦場まで戻ることにしよう…と,私の頭の中にはおよそのコースが想定できている.
 まずは,長野市立博物館から,道なりに歩いて千曲川の堤防に登る.
 堤防に登った途端に,広々とした千曲川の河川敷が目の前に展開する.
 「わあ~…素晴らしい眺めですね」
 異口同音に歓声を上げる.何という開放感!
 これから,暫くの間,この堤防道を上流に向かって歩く予定である.川を越えて肌に心地良いそよ風が吹いている.
 
<長野市立博物館から堤防に登る>                 <千曲川沿いの展望が開ける>

■“長~い”堤防歩き
 地図を眺めながら堤防歩きを続ける.
 遙か向こうに,橋が架かっているのが見える.地図で確かめると松代大橋である.あの橋の田本を通過して,さらに先へ行ったところに典厩寺がある筈だ.そこまでは堤防沿いに道をひたすら歩くことになる.
 私は地図を片手に絶えず現在地を確かめながら先頭グループに混じって歩き続ける.フト気になって後ろを振り返ると,女性群4人が1団となって,100メートルほど後ろをトボトボと歩いている.
 ”そろそろ飽きてきたかな…”
と私は気になる.
 「…あそこに見えている橋の少し先まで堤防歩きを続けます…」
 松代橋に近付くと,進行方向右手の堤防下にこんもりとした森が見えている.多分,この森が槌井神社だろうと推察する.
 ”堤防道から,槌井神社に降りても良いな…”
と思ったが,堤防から下へ降りる適当な道がない.
 ”しょうがないな…予定通りもう少し先まで行くか…”
 15時13分,ようやく松代大橋の袂に到着する.松代大橋は,千曲川という日本屈指の大河を横断する橋だけあって,とても長くて立派な橋である.
 “この橋を渡れば,松代か!…時間があれば是非行ってみたいな…”
と思うが,松代詣では後日の楽しみと言うことにしておこう.
 松代大橋の田本を通過して,さらに数百メートル進むと,進行方向右手に典厩寺の案内板が眼に入る.大きな看板である.
 「ここです.ここで堤防から降りましょう…」
 
<松島大橋>                               <典厩寺の案内板>

<典厩寺から槌井神社へ>

■典厩寺に到着
 15時19分,典厩寺に到着する.
 資料1によると,「典厩寺は,永禄4年の戦いで戦死した武田信玄の弟,武田信繁の墓がある寺である.日本一の大きさを誇る高さ5メートルの閻魔大王像が,川中島で散った武田,上杉両軍6000余名を供養している」とのこと.
 境内には,川中島合戦記念館がある.そこには寺宝60点余りを展示しているという.
 
典厩寺山門>                                 <典厩寺>

典厩寺の境内
 ここは拝観料が掛かる.それはさておき,時間をかけてゆっくり境内を拝観する余裕もないので,残念ながら,入口から中を覗くだけで通過する.
 境内は下の写真のように緑一杯で,広々としている.今回はこの写真を撮るだけ,それに.閻魔大魔王が夢枕に立ったら怖いので,今回は見学はなしにする.

<円久寺の境内>

■集落を抜けて
 典厩寺の前を道なりに右に曲がる.すると新しい住宅が建ち並ぶ集落を抜ける路地に入る.地図を見るとどうやら新田という所らしい.
 15時23分,集落を抜けたところにある槌井神社の鳥居に突き当たる.
 「…ここがどんなところ分からないけど,折角だから立ち寄りましょう…」
 
<神殿という集落に入る>                         <槌井神社に突き当たる>

■槌井神社
 15時23分,槌井神社に到着する.
 境内には,人気が全くない.手入れが行き届いた境内からは,何とも言えない神聖さ,静寂さが伝わってくる.
 手許の資料では,槌井神社の由来などは全く分からない.

<槌井神社>

<胴合橋へ>

北村の集落を抜ける
 槌井神社前で左折して道なりに進む.クネクネと左右に曲がりながら道なりに歩くが,次第に方向感覚が怪しくなる.
 ”多少,間違ってもいいや…”
と開き直って歩き続ける.
 15時23分,民家の庭先に注連縄を結びつけた石塔など3基が立っているのを見付ける.どうやらその一つは道祖神のようである.
 15時27分,前方に松島大橋に繋がる道路が見え始める,私達はこの道路のガード下をくぐり抜けるつもりである.
 
<民家の庭先の石塔3基>                         <前方にガードが見える>

ガードを潜って「おぎのや」へ
 15時27分,松代大橋近くのガードを潜る.そして,15時29分,土産品店「おぎのや」に到着する.目の前の柱に「信州そば蔵長野店」の案内が貼り付けてある.昼食の時間ならばちょっと立ち寄っても良いなと思う.
 「『おぎのや』で,トイレ休憩を兼ねて,ちょっとユックリ休憩しましょう…」
 
<松代大橋付近のガードを潜る>                     <『おぎのや』に到着>

■「おぎのや」で休憩
 「おぎのや」の前庭にある自動販売機近くの椅子に,一同ヘタヘタと座り込む.とにかく蒸し暑いのには閉口する.
 冷たい清涼飲料水を飲みながら,10分ほど息を入れる.

<「おぎのや」の前で一息入れる>

■「おぎのや」の店内を一回り
 15時45分,私は,
 「…そろそろ,出発しましょう…」
と一同を促す.そして,歩き出す前に「おぎのや」でトイレを済ませる.
 トイレに行く必要のない私は,皆さんがトイレに行っている間に,店内をザッと一回りする.
 ずいぶんと広い店内である.土産品に疎い私には,道の駅などに設置されている売店とあまり違わないように思えるが,多分,地元の名産品が多数並んでいるのだろう.店内は団体客を思われる人たちで結構賑わっている.

<「おぎのや」の店内>

■胴合橋
 15時49分,「おぎのや」から歩き出す.
 丁度そのとき,私は地図を確かめて,「おぎのや」からすぐ近くにある「そば蔵」の側に胴合橋(どあいばし)があるのに気がつく.広場を横切って直線距離でせいせい200メートル足らずである.
 資料1によると,「永禄4年の合戦で,武田信玄の弟,武田信繁が討ち死にする.そして越後軍に首級を挙げられた.家来達は敵中に突入して,主人の首を奪い返し,この池で首を洗っていたところ,上流から主人らしい胴体が流れてきたので,合わせてみたら,ぴったりと合ったという.後日,この近くに信繁の供養塔(典厩塚)が立てられた.一説には討ち死にした山本勘助の首と胴を合わせた場所とも言われる.」
 ”これは,是非,見ておくべきだ…”
と私は判断する.そこで,皆さんを呼び止めて,
 「…すぐそこに胴合橋があります.見に行きませんか…」
とお誘いする.
 ところが蒸し暑さでゲンナリしている皆さんは,動く気配がない.
 「…では,私が代表で胴合橋の写真を撮ってきます.ちょっと待っていて下さい…」
 私は半ば駆け足で,胴合橋に向かう.
 15時51分,胴合橋に到着する.そこには真新しい御影石造りの大きな案内板が立っている.この案内板の後ろに廻り込むと,溝のようなところに3枚石を並べた橋が架かっている.この橋の袂に「胴合橋」の案内板が立っている.
 ”まさか! この石橋が胴合橋なの…?”
 私は少しガッカリする.でも冷静に考えれば昔の胴合橋など残っているはずがない.この橋も,何回も作り替えられているに違いない.
 …ま,とにあれ,私は現代の胴合橋を,この眼で見たので大満足である.
 私は数枚の写真を急いで撮ってから,待っている仲間の所へ戻る.
 
<胴合橋の案内板>                            <胴合橋>

■山本勘助の最期
 胴合橋の案内板には,山本勘助の最期について次のような説明が書かれている.
 「朝霧の中から突如として姿を現した越後軍1万2千の大軍が武田方の備えを次々に撃破し破竹の勢いで,信玄本陣目がけて突進する.これを見た山本勘助は,長嘆して「甲越合戦すること15年,その間大小の合戦十余回あったが敵の作戦を見損じたことは一度もなかった.しかし今日は,川霧のために大郡が迫るのをしらなかったのは,我が武運の尽きる時.」と言って,越後勢の中に突入して,家臣もろとも首を落とされてしまったという.勘助の家来達が主人勘助の首と胴を合わせた場所がこの胴合橋であったというが,典厩信繁という説もある.」
 私は,この説明文を読みながら,旧制中学の頃,漢文で「鞭声粛粛…」を習ったことを微かに思い出す.

<再び八幡原史跡公園へ>

■岡の集落をノンビリ歩く
 胴合橋の写真と撮ってから,すぐに待っている仲間に合流して,道なりに歩く.私達が今歩いているところは,地図で見ると「岡」という所のようである.
 民家が点々と続く道をノンビリと歩く.
 地図で現在地を確かめる.どうやらもう少しで八幡原に戻れそうである.

<岡の集落をノンビリと…>

■赤川神社
 15時54分,進行方向右手にこんもりとした森に到着する.森の中に注連縄がかけられた大きな石塔が立っている.ここは赤川神社の境内のようである.
 手許の資料では,この神社のことは全く分からないが,大きな木の下に立っている案内板の記事によると,この神社の祭神は建御名方命と事代主命の2柱.神様に疎い私には,この2柱がどんな神様かは全く分からない.
 説明文には,「養老2年(718年),信濃国更級郡西寺尾村岡組の産土神として勧請した.寛保2年(1742年)関東甲信地方の一帯の河川氾濫,大災害をもたらした大型台風の直撃を受けて,ご神体は守れたものの社殿は住宅田畑とともに流失した.その後養老4年に再建した,明治40年,村社伊勢社と合社した…」というようなことが書かれている.


<赤川神社>

■八幡原公園の芝生
 15時59分,広々とした舗装道路に突き当たる.ここから先は八幡原史跡公園である.
 道路を渡った途端に,風景が激変する.前方には広々とした芝生が広がっている.手入れが行き届いた芝生である.この芝生を眺めているだけで気分が晴れ晴れとしてくる.
 1時05分,公園入口の案内板が立っているところに到着する.
 ”あれえ~…,これなら16時08分の長野行間に合いそうだぞ…”
 
<八幡原公園に入る>                        <八幡原公園入口の案内板>

■バス停川中島古戦場
 16時06分,バス停川中島古戦場に到着する.先客が1人,バス停で待っている.
 ”予定のバスより,1本前のバスに間に合ったぞ…”
 これで,今日一日のウィーキングは.予定通り無事終わった.あとはバスに乗って宿泊ホテルに戻るだけだ.

<バス停川中島古戦場に到着>

[参考資料]
資料1.川中島の戦い整備保存会,発行年不詳,「川中島古戦場周辺マップ」

                                (つづく)
続きの記事
  ↓
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/e873606b8694c0d78c10efef80720b9a

善光寺西街道」の目次
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/33d3e4a1fc9831ac17b48baa1b527962
「善光寺西街道」の索引
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