中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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善光寺街道;第3回;第3日目(5);松代散策(文武学校と松代城址公園)

2016年06月15日 05時09分14秒 | 善光寺街道・善光寺西街道

                                                                             <松代城跡>

 善光寺街道;第3回;第3日目(5);松代散策(文武学校と松代城址公園)                 (五十三次洛遊会)
     2016年4月20日(水)~2016年4月22日(金)

第3日目;2016年4月22日(金)
(つづき)  曇

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http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/0409b796df242b13e3604c20a3cbb70b

<ルート地図>


(引用)松代観光案内掲載の地図の一部分を引用

<文武学校>

■三館案内図
 12時09分,文武学校に到着する.
 ここには真田博物館,真田邸,文武学校の三館が連なってあるが,私達は時間の都合もあって,文武学校だけを見学することにする.

(引用)資料2から案内図の部分だけ引用

■文武学校の概要
 資料1によれば,「第6代藩主真田幸弘のとき、江戸から菊池南陽を招いたことから、松代藩での藩士の教育が始まる。時が下り、第8代藩主真田幸貫が清須町の喰違御用屋敷手狭につき、学舎建設の計画を立てていたとき、佐久間象山は藩家老矢沢監物に「学制意見書及学堂規則」を提出、幸貫はすでにあった水戸の弘道館を参考にするため、藩の儒官林鶴梁をして藤田東湖から組織、経営方法を聞くよう命令。幸貫は東湖からの詳細な返事を経て建設を決意し、総奉行に鎌原貫唯、奉行に菅沼正身、長谷川昭道に任じ、喰違御用屋敷に藩士の金井美濃輔の屋敷を併せ地割、棟梁などを手配し着手するが、幸貫は逝去、第9代藩主幸教が遺志を受け継ぎ、完成。安政2年(1855年)に開校した。総敷地3089m²(934坪) 建坪1500m²(455坪)廃藩に伴い、明治6年以降、初等教育の場として昭和40年代まで使われる。1953年に国の史跡に指定され、松代小学校が隣接地に移転、その後復元工事が行われ、長野市によって公開されている。」という説明が掲載されている.
 
<文武学校入口>

■学校の中に入る
 もう12時を廻っているが,とにかくもんぶ学校だけは見学することにする.
 受付で入場料を支払って館内に入る.その途端に,何となく凛とした雰囲気が伝わってくる.
 私たち以外にも沢山の観光客が入場している.意外に年配者が多いようである.
 最初に見学したのが剣術所である.木造の頑丈そうな床に感動する.
 
<入場券を購入>                              <館内に入る;剣術所>

■校内を一回り
 パンフレットの案内図を頼りに,校内を一回りする.
 今,気温がどの程度あるか正確には分からないが,4月にしては,随分と高温である.校内はむき出しの地面である.熱気が地面に反射して,随分と蒸し暑い.歩いている内に,頭がクラクラしそうになる.

(引用)資料2から案内図の部分だけ引用

■建屋が建ち並ぶ
 表門の前が広場になっている.広場に沿って,何棟かの校舎が建ち並んでいる.
 これらの施設は昭和40年代に復元されたものだとのことなので,それほど古いものではないが.それでも往時のことが偲ばれる.
 
<校庭>                                   <文学所>

■東序
 広場を突き当たると,左に通路が続く.その通路の両側に重厚な建屋が建ち並んでいる.ゆっくりと見学する時間は取れないが,一通り建屋を見て回る.
 下の写真は,建屋のひとつ「東序」である.

<東序>

<松代城趾公園>

■松代城趾公園地図

(引用)松代観光案内掲載地図の一部を拡大引用

■白壁の建屋と垣根の道
 文武学校の見学を終えた私達は,12時20分,文武学校の外へ出る.時間があれば真田邸,真田博物館を見学したいところだが,残念ながら見学は断念して,松代城趾公園に向かう.
 松代城址公園を今回の旅の最終地点にするつもりである.
 もう武学校沿いの閑静な道を北へ向かう.白壁の建屋と塀に囲まれた素晴らしい景観の道である.この道を見ただけでも松代に立ち寄った価値があるなと思いながら,ユックリ楽しみながら歩く.

<白壁に囲まれた道路>

■松代城の概要
 松代城の由来については,資料3に次のような記載がある。
 「千曲川の流れを外堀とする天然の要塞で、当時は「海津城(かいづじょう)」と呼ばれました。
 江戸時代、真田氏が松代藩主となると、松代城を中心に真田10万石の城下町が発展しました。明治の廃城にともない建物が壊されたため、長い間石垣を残すのみでしたが、1981(昭和56)年、新御殿(真田邸)とともに国の史跡に指定されました。その後、長野市により環境整備工事が行われ、2004(平成16)年に櫓門・木橋・石垣・土塁・堀などが復元されました。
 桜の名所としても知られ、4月中旬頃、見頃を迎えます。」

<松代城趾公園入口>

■太鼓門を潜る
 12時27分,松代城趾公園入口に到着する.
 ”公園の中はどんなになっているんだろう…”
 私は期待しながら,公園入口の太鼓門を潜る.
 太鼓門は,威風堂々.なかなか立派な門だが,この門が何時復元されたものか,あるいは新規に建築されたものかなどの詳細は,今のところ,私には分からない.

<太鼓門を潜る>

■天守閣跡からの眺望
 城趾に入る.城の石垣だけが残っている.辺りを見回した感じでは,それほど広い押しではなかったようである.
 石垣に囲まれた空間の一角に天守閣跡らしい所がある.何段かの石段を登って,天守閣跡の高い所へ行ってみる.高い所は公園風に整備されていてベンチが置いてある,
 地元の高校生らしい男女数名がベンチで弁当を食べている.グループのどなたかが高校生に話しかける.
 天守閣跡からの眺望はなかなかのものである.ここは少し高いところだけあって,いくらか風が抜けるようである.涼しい.私達も,ここで暫く休憩を取ることにする.

<天守閣跡からの眺望>

■完歩記念写真
 天守閣跡から下の広場に降りる.
 12時35分,広場の一角で記念写真を撮る.
 ここで昨年から続けてきた善光寺西街道および善光寺街道の旅は,無事,全行程を終えたことになる.
    ”完歩万歳!”
 ここで解散である.
 ”長い間ご苦労様でした…”
 ここで一応解散だが,バス停のある旧松代駅までは,一緒に移動する予定である.

<完歩記念写真>

[参考資料]
資料1;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%AD%A6%E5%AD%A6%E6%A0%A1
資料2;http://www.matsushiro-year.jp/modules/sightseeing/index.php?action=FacilityView&facility_id=4
資料3;http://www.sanadahoumotsukan.com/facilities/facility.php?n=7

                                   (つづく)
つづきの記事
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【参考資料】
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