中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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戦中戦後余録:神社の境内で"大音響”

2020年08月08日 06時16分23秒 | 戦争の思い出
                <懐古園に移った鹿島神宮>    

                                    戦中戦後余録:神社の境内で"大音響”
                                                   (戦中戦後の思い出)
                                       2020年8月7日(金) 晴・猛暑日
 今日も猛暑.
 相変わらずコロナが猛威を振るっているようである.
 そんな中,長女一家が午後いっぱい我が家を訪れていた.
 家に中でもマスクをして雑談,一緒に昼食.5人以下の原則は守り,換気には注意したものの即時の時はマスクを外さなければならないし,3密の確保はなかなか困難だということが,自分の体験でわかってくる.
 今はただ,クラスターにならないことを祈るのみ.
 ”さぁてっと・・・,”
 今月15日の敗戦記念日まで,もう少し戦中戦後の体験談を披露することにしたいと思う.
 たぶん,今回のような下品で他愛のない話はどうでもいいのだが,まあお付き合いください.
<現在の鹿島神宮(懐古園内)> 昔は小諸駅前にあった.
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 私が国民学校高学年の頃,多分,昭和19~20年頃だったかと思う.
 当時私は信州小諸に住んでいた.
 小諸駅前広場は浅間山から下る長い斜面の一部を掘削して作られていた.したがって広場の突き当たりは断崖になっていた.駅前広場は今の半分程度の広さしかかった.
 それでも小諸は北国街道の有力宿場町である.当時は大いに栄えていた.正に佐久地方の商業の中心地でもあった.
 その断崖の上に鹿島神宮(愛称は鹿島様)があった.
 今はこの鹿島様も,小諸の名園「懐古園」の一角に移築されてしまった.でもその頃は町のど真ん中に鎮座していた.
 私たち国民学校の高学年の学童(その頃は少国民と呼んだ)は,ときどき全員で鹿島神宮境内の清掃に出かけた.どの程度の頻度で行ったのかはもう忘れてしまったが・・・
 清掃の日になると,確か竹箒などの清掃道具は,少国民がそれぞれ鉄砲を担ぐように背負って運んだんだと思う.
 学校から二列縦隊になって,400~500メートル離れた鹿島様まで行進をする.
 神社に近づくと,例により,班長が,
 ”歩調とれ!”
と号令.
 神社に着いてから戦勝祈願をする.この式次第の詳細はもう忘れてしまったが,多分,まずは参拝.
 その後,班ごとに,それぞれの分担場所を竹箒で入念に清掃をする.
 清掃が終わると,また拝殿に向かって,
 「前にならえッ・・・!」
 号令一下,私たちは背丈の順に,”タ,タ,タ,・・・”と,実に迅速に,ほんの1秒で見事に一列縦隊に並ぶ.
 そして,再び拝殿に向かって厳かにの拝礼をする.
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 儀式のクライマックスが始まる.宮城遙拝である.念のために「宮城」は宮城県のことではない.東京の皇居のことである.
 「宮城遙拝・・! 回れ右っ!!」
 号令一下,私たちは足並みをそろえて球場方向(つまり東京方面)にターンする.
 まず,”サッ”と右足を半歩ばかり後ろにずらす.そして身体を右回りに反転,そして右足を元の位置に戻す.
 これを全員が見事にシンクロナイズさせて,”ピッ,ピッ”,と一糸の乱れもなく歯切れよく行う.もちろん,日頃,繰り返し練習している.今の北朝鮮によく似ているなと思う.
 方向転換が終わると,
 「礼ッ!」
と号令がかかる.
 私たちは一斉に最敬礼をする.最敬礼とは頭を腰の高さよりもっと低くまで垂れて,
 「直れっ!」
の号令があるまで,30秒ほど頭を下げたまま微動すらしない礼のことである.礼をしている間,あたりは”シ~ン”と静まりかえっている.
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 事件が起きた.
 最敬礼で静まりかえっている間に,誰かが大きなオナラをしてしまった.
 号砲一発である.
 とにかく芋ばかり食べているので,確かにガスがやたらに腹にたまるのはやむを得ない.
 でも,最敬礼の最中に号砲一発は,万死に値する不敬罪(?)である.普通,だれもそんなことはしない.
 この音を聞いて,もう,可笑しくて,可笑しくて・・・
 でも,うっかり笑うと笑った者も不敬罪(?).
 腹や背中がよじ繰り返るほど痙攣させながら,必死の思いで,笑いを堪え,最敬礼を続ける.
 何事もなかったように,
 「直れっ!」
の号令がかかる.これで,最敬礼を終える.
 私たちは,笑いたくても笑えないまま,隊列を組んで学校まで戻る.
 死ぬほど笑いたくても笑えないつらさ,絶体絶命の苦しさ.
 平和な時代に生を受けた皆さんには分からないのではないかと思います.皆さん,お分かりになりますか.笑ったら死刑になるかもしれないと思っていましたよ.
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 後日譚.
 大音響を発した少国民とその親は,後で,こっぴどく叱られたという噂だった.ただ真偽のほどは不明.
 70年以上も前の”大音響”が,まだ私の耳に焼き付いている.
 そして,時々,この大音響を思い出し,一人でにやにやしている.
                                  (おわり) 
「戦中戦後の思い出」の前回の記事
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「戦中戦後の思い出」の次回の記事
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「戦中戦後の思い出」(索引)
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