中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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東南アジア紀行[8]:ちょっと寄り道;瘋癲先生の屁理屈(1)

2012年02月23日 04時16分21秒 | 東南アジア訪問記 

[復刻版]    東南アジア奇行[8]:ちょっと寄り道;瘋癲先生の屁理屈(1)
          (マレーシア・シンガポール駆け足の旅)
         1997年8月26日(火)~9月4日(木)


 <閑話休題>

■おだてられて…

(2012年注)以下は1997年時点での話です.

 前回,東南アジア奇行[7]をアップした途端に,ISフォーラム(2012年注;このフォーラム,今は存在しない)のTさんからコメントが帰ってきた.正直に申し上げて,もともと短気な私には「打てば響く」ように反応があるのが,とても快感なのである.心からお礼申し上げたい.それにしても,今回のクイックリスポンスには,ほとほと感心している.

 同じくISフォーラムのS先生,丁寧なコメントに感謝!
 先生から「文筆家」などと煽てられると,すぐその気になって,「奇行(間違えた紀行)」の続きを書き始めてしまう.だから,私も随分と脳天気だなと自嘲している.
 先生ご指摘のように,私も正直なところ,これでも随分と忙しい.だから,まともな仕事をする時間がないのも事実である.ただ,私は,半生をSE稼業で過ごしている内に,「なんでも60点主義」が身に付いてしまった.要するに「合格点ならまあいいや」で,何ごとにもすぐ妥協してしまうのである.納期のあるものは,欲張らずに,60点程度でドンドンこなしてしまうことにしている.

■当てずっぽうの60点主義;決してお薦めしないが…

 私の経験則でいうと,60点で妥協したときの労力を「1」とすると,70点をとるには「4」の労力が要るし,80点にするには「8」位の労力が要る.だからこのシリーズなどは,思いつくままドンドン書いてしまうので,皆様が想像されるほどの時間は掛けていない.せいぜい1時間ちょっと程度で,一気に書いてしまう.
 実は,書いたものは,そのまま2~3日放りっぱなしにしておいて,後日,改めて読み直してみる.そして必要ならば,小修正をする.そんなことを1~2回すると,毎週,金曜日辺りになる.そこで,その間に,コメントを頂戴していることを確かめてから,アップしている(これって,60点に達していないかな?).

 小生のいう「当てずっぽう60点主義」は,多分以下の図のような概念であろう.
 縦軸に所要労力を,横軸に仕事の完成度をとると,60点以下だと「不合格」だから徒労に終わり,結果的に余計な労力がかかる.となれば60点が最も有利という単純な理屈になる.ただし,他人にはこんないい加減な生き方はお薦めできない.皆さんが,私の「ずぼら主義」などは,決して真似をしないように願っている.
 ところで,ここで疑問が発生する筈である.一体,だれが60点と評価するのだろうか?
 それは・・・まあ,良いではないか・・・
 
(所要労力=労働量×精神的負担)
 
労力レベル

   8 -          |               ● (過剰品質)
    |←-不合格-→|←-合 格---・・・→ /
   7 -           |      →       /
    |  情操面で気分 ||  納期遅延の危険   /  完成度を少し高める
   6 -   が悪い     |  が増大し       /  だけで,必要とする
    |            | 気 になる      /   労力は指数関数的に
   5 -           |             /   増大する.
    |  失注し無駄   |          /       ↓
   4 -  な努力を強  |         ●    だから,合格点すれ
    |   いられる   |         /     すれで「妥協」する
   3 -   ●       |        
    |         |      /      でも,この考えは,
   2 -          |    ●        皆様にはお薦めでき
    |         |  /          ない
   1 -          ●(適正品質・・と思っている)
    |          |
    +---|---|---|---|---|-
          50    60    70     80    90 得点
                            (完成度)

  図 仕事の完成度と所要労力度の関係(当てずっぽうのグラフです)

<私の日常>

■キャラバンシューズに履き替えて…

 さぁ~て と・・・
 1997年10月17日.金曜日.

 千葉から「武骨」が鎌倉までやってきた.「武骨」とは秋の藪道を歩くつもりであったが,肝心の「武骨」が腰を痛めてしまった.それでも,秋の鎌倉の魅力には逆らえずに,はるばると2時間以上も電車にゆられてやってきた.そこで,獣道や藪道は避けて,北鎌倉,亀ヶ谷坂,里見頓邸,浄光明寺,大佛次郎邸,鶴ヶ岡八幡,鎌倉文学館(大佛次郎展をやっている)と,柄にもなく文化の香豊かな散歩を楽しんだ.

(2012年注)「無骨」は私が大学時代に同じ下宿で過ごした親友.すでに数年前に旅立ってしまった.
            彼は私の人生の大恩人でもある.


 鎌倉文学館は,元前田侯爵の別邸で,山深い鬱蒼とした木立の中にある.文学館の展示品の中には,緑滴る古き良き時代の鎌倉の写真が沢山ある.

 今はもう無くなってしまった深い鎌倉の山が写真に残っている.
 翌,18日.土曜日.午前中の大学院の授業を終えた私は,そそくさとキャラバンシューズに履き替えて,朝比奈の切り通しを経由して鎌倉駅までの散策を楽しんだ.
 鎌倉時代の切り通しの両側は,垂直に切り立った岩が屏風のようにそそり立っている.でこぼことした岩肌には苔が繁茂している.落葉が始まった木立を透して射し込む西日を受けて,岩肌の陰影の中で,苔が光り輝いて見える.これが何ともいえぬほど美しい.
 この切り通しも,現在の土木工事で作ったら,きっと三角定規で線引きしたような,なんの変哲もないコンクリートの斜面に囲まれた峠状の舗装道になってしまうだろう.そして,そんなところを通っても,なんの感傷も得られないだろう.
 鬱蒼とした鎌倉の山々や,夕日に映える苔の切り通しを見ていると,そこには厳しい自然と対峙しながらも,自然に溶け込んで生きてきた祖先の叡智が見て取れる.自然に対して率直で,謙虚だ.それに比較して「三角定規とコンクリート」の自然対決型建造物は,合理的かも知れないが,静かに自然に朽ち果てていく謙虚さがない.
 これを考えると,
 「私達,現代人は,一体何をしてきたのだろうか」
という素朴な疑問に苛まれる.
 「何か」を急速に失いつつあることだけは確かなのだ.


■父母懇親会
  1997年10月19日.日曜日.

 父母懇談会が大学で開催される.私達,専任教員は,全員,父母との応対のために駆り出される.折角の散歩日和なのに残念とは思いながらも,これも,大事な仕事である.全力で取り組まなければならない.
 昔の大学に,父母懇談会なんて,あったかしら?・・・・と,ふと思う.
 とにかく,今週の終末は,この父母懇談会に出席するために,休日なしに大学に入り浸っている.
 教員一人当たり約10人の父母と懇談する.手許には個人別の履修届と,単位取得状況が配られている.これを父母にお渡しする.これを見ながら父母と懇談するのである.
 不思議なことに,例年,うんと出来の良い子息の父母が面談に来られることがとても多い.
 今日も,最後に来られた父母のお嬢さんは,誠に申し分のない成績である.
 「お嬢さんの成績は申し分ないです.何もこちらから申し上げることはございません.このまま,元気に学生生活を過ごさせてやって下さい」
としかコメントのしようがない.
 「そうですか・・・」
と両親は満足そうに帰っていった.
 でも,面談の時間は,散々待っていただいたのに,わずかに4~5分で済んでしまった.しかも「何も問題ない」のコメントだけ.一体これで本当に良いのだろうか,何のための面談だったのだろうと,いぶかしく思のである.
 夕暮れに父母懇談会は終了した.
 私は,丹沢山塊にかかる雲を輝かせながら沈んでいく太陽を眺めながら,帰途についた.
 久々に輝く夕暮れを見たような気がする.
 でも,若い頃,生まれ故郷の信州で,毎日眺めていた眩しく煌めくような山の稜線の輝きに比べると,今はとても空が汚れている.スッキリせず,どうも物足りない.それが,とても悲しい.  


■K大のソカさんのご指摘
 ここで,話を少し別の方向へ展開する.

 大部分の皆様がご存じのように,私は情報システム(以下IS)を飯の種にしている.でも,この肝心の情報システムが,どうしても解せないのである.このようなことを書き立てると,また,「青二才め!」と叱られるかも知れないが・・・
  でも,まぁ,一寸,待っていただきたい.
 大体,従来からいわれているISなるものは西洋文明の「申し子」に過ぎないのではないかという素朴な疑問が,何時も私の脳裏から離れない(こんなことは学会では,私も口が裂けても絶対に言わないが).
 にもかかわらず,現に,私はISを講義して「禄」を得ている.ここに私自身の自己嫌悪に近い自己矛盾がある.
 先日,「ソカさん」から,このシリーズの感想をメールで頂戴した.
 彼曰く,西洋人は自然と対決して,絶対朽ち果てない古城のような醜悪な異物を後世に残した.それに対して,日本には1万年前から文明があったにもかかわらず,その文明は自然と共存して,自然の中に静かに消えていった・・・  

 私は,自分の思いを,旨く表現できないが,ISについても同じことが言えるのではないかと思っている.

■情報システムは“硬い化石”?
 組織の中に埋没し,融合しているISこそ,本当に経営に役立っているISではないか.組織の要請があれば,硬い芯のようなものを残さずに,不具合な部分は,老廃物のように自然に流れ去り,目立たずに,新しいISに円滑に新陳代謝していくのが,自然流で一番良いものであろう.
 でも,現実には,古いISが,まるで西洋の古城のように,硬い化石になって,組織の中で,癌のように,蔓延(ハビコ)りのさばりつづけている.それが組織の柔軟な変革を阻害する.

 われわれの身体に例えれば,健康なときは,頭や心臓,胃,腸などの存在に気付かない.でも,具合が悪くなると,頭痛がしたり,胃が痛くなったりして,「ここに頭あり」「ここに胃あり」がハッキリしてくる.健全なISは,健康な五臓六腑が体の中に溶け込んでいて存在がわからないように,組織の中に溶け込んでいて,その存在すら気付かれないようにならなければ本当ではない.
 「ここにISあり・・・・ドウダっ!」
で顕在化しているうちは,そのISは本物ではない.
 でも,そんな理想的なISとは,一体,どんなものなのだろうか.


■瘋癲先生の情報システム論
 わたしは,19日の夕暮れを眺めている内に,この理想的なISについて,私の家の近くに寄寓する「瘋癲先生」の意見を聞きたくなった.

 そこで,某日,久々に,「瘋癲先生」の家を訪れた.
 「瘋癲先生」はボロ屋の縁側に胡座をかいて,ぼんやりと,夕焼け空を眺めていた.私の姿を見つけると,左手に顎を乗せたまま,

 「やあ,しばらく顔を見せなかったね.元気かい?」
と上目遣いにニコリとする.
 ご機嫌である.

 そこで,私は「瘋癲先生」のIS論を,雑談風に伺うことにした.
 以下が「瘋癲先生」の「瘋癲のIS論」の骨子である.

   ****************************

[瘋癲のIS論]   -"斜"に構えた「静脈情報システム論」-

■枠組み
 われわれの体の中を流れる血液流は,動脈と静脈から成り立っている.
 つまり,われわれの身体には,老廃物を処理する「陰の流れ」がある.これを仮に「静脈流」と呼ぶことにしよう.企業の中にも,情報の「静脈流」があるはずである.
 この陰の情報の流れともいえる「静脈流」的なISは,陰湿で,感情的で,秘密主義で覆われていて,企業の中でも,ごく一部の人にしか分からないシステムとして,沢山存在している.
 だから,通りいっぺんのシステム分析では,多分これらは把握できない代物である.アンチ標準化の世界なのかも知れない.だが,この静脈流的なISが企業の死命を制することがあるのは,自明なことであろう.
 どうだろうか・・・?
 ISを下図のように,四つの象限に区分して考えることはできないだろうか?
 これが「瘋癲のIS論」の骨子の部分である.


              柔らかいIS           硬いIS
               [非標準的]       [標準的 ]
               [流動的 ]       [固定的 ]
              [改変容易]   ↑    [改変困難]
              (第2象限)     |   (第1象限)
                        |
         決断力や判断力       |   コンピュータを
 動脈のIS     を主体とした      |   使った通常のIS
  [明示的]    人間中心のIS    |
  [表面的]                  |     西洋の古城的
         不要になれば消えていく |いつまでも残っていて有害
       ____________|____________
                         |
          良くも悪くもアンタッチャブル  |  (N証券の改竄事件)
             マル秘のIS     |   ここが何なのか
  静脈のIS      言い伝えのIS    |   良く分からない
  [非明示的]    潜在しているIS  |
  [裏面的 ]      (第3象限)    |   (第4象限)
                         ↓
■縦軸と横軸
 まず横軸である.
 これは「柔らかいIS」と「硬いIS」に分けられるだろう.柔らかいISは,人手中心の非標準的,流動的,改変容易という特性を持つ.一方,硬いISは標準的,固定的,改変困難である.基幹系ISと呼ばれるものは,大体,こちらに属している.
 だから例えば2000年問題で苦労するし,一旦,ISが出来上がると,そのISが,硬いパラダイムとなって,組織変革の妨げになってしまう.

 次に横軸である.
 これは「動脈のIS」と「静脈のIS」に分けられるだろう.動脈のISは,明示的,表面的である.また,目立つ.だから,他人の目から見ても,比較的分かりやすい.それに対して静脈のISは非明示的で裏面的である.だから,どのように処理されているかは,よそ目にはなかなか分かりにくい.

 さて,これらの縦軸,横軸を組み合わせてみよう.

■四つの象限

(1)第1象限
 まず,第1象限は「動脈を形成する硬いIS」である.したがって標準的,固定的,改変困難,明示的,表面的なISという特性を持つ.だから,通常,システム分析というと,第1象限のISだけを調査・分析の対象にしているように思えてならない.

 仮に上流行程で,
 「いや,われわれは第1象限から第4象限までの全領域を分析対象にしている」
と力んでみても,作業が下流行程に進めば進むほど,断りもなしに,第1象限に対象を収斂させてはいないだろうか.だから,IS部門は,組織の中で浮いた存在になり果てる(と言ったら,多分,叱られるだろう).


(2)第2象限
 第2象限は「動脈を形成する柔らかいIS」ということになる.毎朝,朝礼を行って部長が部下に教訓をたれたり,部下が上司に臨機応変に報告をするなどというのはこの典型であろう(もっともフレックス勤務が流行すると朝礼が昼礼になったりしてこの通りではないだろうが・・・).
 でも第2象限は,建前と本音がかなりの部分で一致しているという特徴があるだろう.この象限のISの特徴は,非標準的,流動的,改変容易で,かつ,明示的,表面的である.


(3)第3象限
 これは,「静脈を形成する柔らかいIS」ということになる.実は,ここの得体は知れないが,重要な部分であろう.組織文化が一番濃厚に出るのが,この第3象限ではないかと思う.ここの部分では,ある特定の地位,特定の部門,特定のグループの中でしか通用しない不文律がISを律している.だから,組織全体にとって,良い面と悪い面が併存している.また,ある時は,当該組織にとって必要悪ながら「善」と判断されたことでも,後になって,それが組織全体の崩壊を促進してしまうことも多々ある.
 この象限のISの特徴は,非標準的,流動的,改変容易で,かつ,非明示的で,裏面的である.良くも悪くもアンチャッチャブルだ.最近話題のM坂屋の利益供与事件は,この象限での象徴的な出来事だ.渦中の方と同じ立場になったら自分もやりかねないと,内心「ひやり」とした方も多いだろう.M自動車の例もご多分に漏れずだ.


(4)第4象限
 第4象限は,「静脈を形成する硬いIS」ということになる.
 標準的,固定的,改変困難であるにもかかわらず,非明示的で裏面的である.この特徴を説明するには,昨今話題となったN証券の事例が分かりやすい.実際のトランザクションデータをインプットする際に,後から顧客コードを手入力するIS(本当かどうかは知る由もないが)を例示すれば十分だろう.


■話題が脱線
 ここで一寸,脱線して話を広げると,M坂屋にせよ,N証券にせよ,国という上位のシステムと,その中に包含される下位システムの相互関係から矛盾が生じた.一寸,視点をさらに高いところにあげて見下ろせば,「世界」という上位システムに包含される下位システムの「日本国」は,丁度,M坂屋やN証券と同じことをやっているともいえる.
 そのやっていることに対して,日本国民は特に反発もしていない.それは日本国という下位システムの立場から見ると,反世界的行為であっても,当該下位システムを,恙なく存続,維持するためには有効な手段だったからである.これと同じ感情が,多分,M阪屋やN証券の社員にはあるのではないか.

 もっといえば,何ごとにつけてデファクトスタンダードだと,われわれに押しつけてくるアメリカにだって,さらにどこの国にも,どこの社会にも,その一つ上位のシステムから見れば受け入れ難いルールや規範で行動しているものだ.良い悪いは別にして・・・
 これが,第3象限なのだ.でも,この象限には,決してダーティな部分だけでなく,良い面が沢山あることを付言しておきたい.
 さらに敷衍すると,そもそも「規制」は,上位システムを維持するための必要悪なのだ.規制がなければ「"たが"の外れた桶」のように,そのシステムはバラバラになってしまう.だが,下位システムにとっては規制はきつい.したがって,規制をめぐる双方の「せめぎ合い」が起きる.その実質的な舞台の大半が,この第3象限なのだ.
 ところで,新しいISや諸概念は,どの象限に有効かという問題がある.
 誤断を恐れずにいえば,ISO9000も,所詮は,第1象限と第2象限しか律しえない.また,ワークフローも,所詮は第1象限から,少し,第2象限寄りの領域をカバーするに過ぎない.SAP は?
 その他の最近の手法は,言及するだけで,しっぺ返しの刃(ヤイバ)や槍が沢山飛んできそうなので恐い.でも,これだけは言っておきたい.物事をコンピュータサイドからだけ見ていては駄目だと・・・・・・
 特に,少しばかり,物事が見え始めて,自信が付き始めた若い方々に,年輩者からの申し送り事項として.ただし,こんな"年寄りの意見"は無視しても構わない.
 セキュリティ確保や情報倫理の視点から見ると,第3象限と第4象限の領域が,特に問題が大きい.第3象限で,ごく一部の人間(特に高い地位の人間)が問題を起こしても,この象限の特徴である非明示的,裏面的,非標準的,流動的,改変容易という特性から,なかなか他人には分かりにくい.そして,問題は癌のように密かに大きくなっていく.
 さらに,同一組織に属する善意の他人が,その問題に気付いたときには,最早,手遅れになっていて,結果的に呉越同舟の運命をたどることになる.
 “こんな話,つまんないな・・”
                                       (屁理屈は次回につづく)

「東南アジア紀行」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/f05e3a4b0ed14a03080a8966178ae5f4
「東南アジア紀行」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/90076e20639f192cc68bc6d951949e2c



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