かなり時間が経過してしまいましたが、『シルビアのいる街で』のレビューを書きます。
2008年の「東京国際映画祭」で話題を呼び、世界一寡作な映画作家ビクトル・エリセ(『ミツバチのささやき』『エル・スール』『マルメロの陽光』)が太鼓判を押しているホセ・ルイス・ゲリン監督の『シルビアのいる街で』が、ようやくロードショー公開されました。栗原一泊旅行で夏休みが終わってしまったニワトリさんは、「幻の女」(といえば、ウィリアム・アイリッシュのサスペンス小説が懐かしく思い出されます)を追いかける主人公の「妄執の目線」を借りて、石畳が美しい古都ストラスブールを旅してこようと思い、渋谷のシアター・イメージフォーラムに赴きました。
冒頭の4分間で、とんでもない映画を見ているぞという興奮と期待に胸が躍りました。この間、主人公の美青年(日本人好みだと思う)は宿泊先のホテル「パトリシア」(宿の名前も女性なんだね・・・)の一室で殆ど動くことがないのですが、実に映画的な光景が映し出されます。
深夜、表通りを時折駆け抜けてゆく車のエンジンとタイヤの音と一緒に、窓から室内へと間接的に差し込んでくるへッドライトの灯りが壁や家具を照らし、光と影の幻燈を見せてくれるのです。回り灯篭を見ているような気分になったその瞬間、観客席から画面の中に入ってしまいました。
イケメンの主人公の体を借りて、オープンカフェで冷たい飲み物(彼はビールを飲んでいたけれど、自分はピンクレモネードかな?)やコーヒーを飲みつつ、そこに集まる女性たちを花を愛でるように眺め、古都の石畳を歩きながら雑踏の音に耳を傾け、歩き疲れると最新鋭の低床式路面電車に乗って市内を巡りました。夕暮れが近づいてくると、暑さを和らげてくれる気持ちの良い風を感じながらまた歩き始め、夜はナイトクラブに行き(ブロンディの「ハート・オブ・グラス」がかかっている)、魅力的な女性の一人に声をかけると・・・。
殆ど台詞もなければ、映画音楽もありません。物語はシンプルで、主人公が美形でなければ全然違う映画になっていたでしょう。主人公の行動を許せない人もいる筈。でも私は思うのですが、彼は観客を映画に引き込むための狂言回しだったのではないでしょうか? 彼が後を追ったシルビアかもしれない女性も実は映画が用意した実体のある幻で・・・。想像をたくましくすれば、自分がカメラのレンズになり集音マイクになって一本の映画の誕生を見守っているような、そんな気持ちにさえなりました。
自分が変身したのは古典的な16mmカメラです。映画の世界でもフィルム撮影が少なくなってきたこの時世に、『シルビアのいる街で』は16mmカメラを使って撮影されました。70年代のインディペンデント系アメリカ映画に親しんだ人には、何とも懐かしく魅惑的な絵と音が拾われています。石畳のS字カーブをゆくトラムの何と魅力的なこと! 「鉄」の皆さんにも自信を持ってお勧めできます。
そして、この映画の奇蹟は、実は映画が終わった後で明らかになります。館内から表に出ると、何かが違う! うだるような暑さの宮益坂の街路樹の緑が何とも美しく、普段は騒音としか感じない街のノイズが、まるで今見たばかりの映画のように美しい音楽となって耳に聴こえてきます。街並みも素敵だし、緩い坂をすれ違う女性が実に魅力的で、片っ端から声をかけたくなりました。このマジック、長続きしないところが残念な限りですが、映画の続きを観るように駅に向かいました。
(ここからは無駄話です)
ゲリン監督は、小津安二郎とF・W・ムルナウを敬愛して、来日したときは鎌倉まで墓参りに行ったそうです。「江ノ電」を見てどんな感想を抱いたか、誰か監督に質問してくれるとよかったのですが・・・。
『シルビアのいる街で』は、極端なローアングル撮影(しかも広角レンズでダイナミックに!)や、背景を壁などでつぶしてわざと平板にした構図がたびたび出てきて、「なるほど、小津だ」と思ったのですが、主人公の青年が(こうした言い方は失礼かもしれませんが)秋葉系男性で、ストラスブールのような魅力的な街を歩くのではなかったら、にわかにクローズアップされる「妄執」を題材にしているところから、エリック・ロメールの作品に極めて近いと感じました。
映画狂(だと思う)のゲイン監督は、アルフレッド・ヒッチコックの「妄執」映画『めまい』に惹かれ、主人公のジェームズ・スチュワートが友人に依頼されて彼の美しい妻(キム・ノヴァク)を尾行する『めまい』の前半部分のカメラワークを超えるために、登場人物をどう歩かせるかプロットを丹念に描き、行き先ごとに人々を配置し、場合によってはわざと音を作って音を拾っていきました。この部分はドキュメンタリー映像に見えるところですが、全て計算された、その意味ではドキュメンタリーとは正反対の演出によって作られた映像です。そういうわけで、ゲイン監督が『めまい』を意識しているのは間違いありませんが、それ以外に具体的な作品名を挙げると、エリック・ロメールの『クレールの膝』や、遺作となってしまった『我が至上の愛 ~アストレとセラドン~』を想起しました。
エリック・ロメールは、ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、ジャック・リヴェットらと同じ「ヌーベル・ヴァーグ」を代表する監督です。一般的にロメール作品は「お洒落で知的なフランス映画」だと思われていますが、デビュー作の『獅子座』のときから偏執狂の性格が遺憾なく発揮されていました。ロメールの映画は、(映倫がクレームをつけるような)「猥褻」なシーンは一切出てこないのに非常に官能的で、「芸術は猥褻だ」と客観的に見切っている感すらあり、誤解を恐れずに言えば「猥褻が服を着ている」ような映画作家で、ヒッチコック同様「変態」です。
(ロマン・ポランスキーやダリオ・アルジェントとかは比較的わかり易いけれど、巨匠のジョン・ヒューストンやイングマル・ベルイマンとか、危ないヒトがいっぱいいますね。イーストウッドも「盛ん」だし、誰も面と向かって言えないけれど宮崎駿さんもかなり・・・)
『クレールの膝』のフェティシズムは犯罪スレスレのところでしたし、遺作となった『我が至上の愛 ~アストレとセラドン~』は、70年代初頭のアメリカポルノ映画が題材にしたら傑作が誕生しそうな「純愛」物語でした。86歳でこのような映画を撮れることに驚いたけれど、この物語が「至上の愛」なのだから、この人は息を引き取るその瞬間まで(エルンスト・ルビッチ監督の『天国は待ってくれる』のドン・アメチのように)好色な人だったのだと感心すると共に、自分もかくありたいと思ったものです。
『シルビアのいる街で』公式HPは、 → ここをクリック
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