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ふるさとは遠くにありて・・・とは良く言うけど(Nov 3, 2013)

2013-11-03 21:11:59 | 時事ネタ(国内)
今回は簡易更新。


今日は文化の日。
ってわけじゃないんだろうけど、この日は秋の叙勲で受賞した人達を招いて文化勲章の親授式が行われた。
・文化勲章親授式 高倉 健さんら5人に(2013年11月3日 nhk.or.jp)

この手の褒章ってのは、それまでの功績を称えるという側面が強いわけだが・・・。
以下、2013年11月3日分 nhk.or.jp『文化勲章~』を全文(略

---- 以下引用 ----
文化の日の3日、皇居で文化勲章の親授式が行われ、俳優の高倉 健さんなど5人に天皇陛下から文化勲章が贈られました。

ことしの文化勲章の受章者は、長年、日本を代表する映画俳優として活躍し主演の「鉄道員(ぽっぽや)」などで数々の映画賞を受賞した高倉 健さん(82)、かなと漢字の美しさを融和させた独自の書風で活躍する書家の高木 聖鶴さん(90)、コンピューターなどの磁気記録に関する研究で先駆的な業績を挙げた東北工業大学理事長の岩崎 俊一さん(87)、万葉集ができる歴史的過程を比較文学の手法で明らかにした国際日本文化研究センター名誉教授の中西 進さん(84)、分子免疫学の研究で世界をリードする役割を果たした静岡県公立大学法人理事長の本庶 佑さん(71)の5人です。
親授式は皇居・宮殿の「松の間」で行われ、天皇陛下から一人一人にたちばなの花にまが玉をあしらった文化勲章が贈られました。
そして、受章者を代表して高木さんが「それぞれの分野において一層精進を重ねる決意でございます」とあいさつすると、天皇陛下は「長年努力を重ね、大きな業績を収められ、文化の向上に尽くされたことを誠に喜ばしく思います」とお祝いのことばを述べられました。
このあと受章者たちは文化勲章を着けて宮殿の前で記念撮影に臨み、受章の喜びをかみしめていました。
---- 引用以上 ----

一層精進といっても、残された時間はそれ程長くないんだろうけど・・・(不謹慎)
まぁ、次の世代に伝えるべきものを渡すってのも一層精進の中に入るのかもしれん。
じゃないと、色々もったいないし(謎)。

一方、この受賞に関して高倉 健(本名;小田 剛一:Gou-ichi ODA)が妙なことを語っていた。
・健さん受章会見詳細 「一生懸命やろうと思ってます」(2013年11月3日 asahi.com)

実は、文化勲章受賞が決まった時の発言にも同様の発言をしてたらしいが・・・。
以下、2013年11月3日分 asahi.com『健さん~』から前半部分を(略

---- 以下引用 ----
3日の文化勲章親授式後の記者会見で映画俳優、高倉健さんが語った主な内容は以下の通り。

高倉 健さん、受章に喜びと自省


――受章の感想をお願いします。

 「日本人(にっぽんじん)に生まれて本当に良かったと今日、思いました。文化のために何をしたのかな、という反省も大きくあります。一生懸命やろうと思っています。以上です」

――本日、天皇陛下にお会いして、どのような印象を受けましたか。

 「前回(お会いしたのは)、文化功労者の時だったでしょうか。ちょっと健康を害されているのかなと、それが気になりました」

――緊張はされましたか。

 「そんなに緊張はしませんでした」

――天皇陛下からは何と声をかけられましたか。

 「特別僕個人にお話をされたわけではないので。お年を召されたなというのが、自分はとても気になりました」

――アウトローも含め、さまざまなの日本人を演じてこられたと思います。
「日本人で良かった」という言葉にはそういう感慨が込められていると思いますが、改めておうかがいできれば。

 「二百何本という膨大な数字の本数をやらせていただきましたけれども、ほとんどが前科者をやりました。今、ここ(宮内庁内の記者会見場)の中に入ってみて、ああ、ここ、撮影で来たような気がするな、『動乱』(1980年公開)じゃなかったかな、とか。そういう役が多かったのに、こんな勲章をいただいて、一生懸命やっているとちゃんと見ていてもらえるんだなあと、素直にそのことを思いました

 「(皇居は)とっても気持ちの良い場所でした。日本にこんな空気の場所があるんだな、というくらい」
(以下略)
---- 引用以上 ----

日本人で良かった、か。
長年芸能生活をやっててそれが得たものの1つに入るのって、正直キツくないか?
この辺りは、高倉 健が仕事以外では日本国外で暮らしてるのも影響があるんだろうけどね。
ふるさとは遠きにありて思ふもの、そして悲しくうたふもの・・・。


つか、高倉 健の発言って、日本でディアスポラの概念がなかなか理解されないことを暗に示してるような。
ただし、日本でも思わぬ形でディアスポラを経験するハメになった人達もいるのだが・・・。
・ディアスポラと放射線 『津波の後の第一講』『ディアスポラ紀行』(2012年3月23日 レゴと文学)

上の記事は、『ディアスポラ紀行』(徐 京植 著)と『津波の後の第一講』(今福 龍太、鵜飼 哲 著)を参照しつつ、2年前に起きた震災→福島第一原発の事故の意味を記していた。
以下、2012年3月23日分 レゴと文学『ディアスポラと~』から後半部分を(略

---- 以下引用 ----
(中略)
ほぼ1年前の津波の翌日、福島第一原発が爆発した。
原発が爆発するという非常事態の意味をすぐに理解して行動した人はけっして多くはなかったのではないだろうか。
しかし原子力に詳しい者、原発問題を知っていた者、あの状況下で情報を収集できかつ整理し理解できた者から順に人は福島を脱出したのである。
その人たちは、国の判断や避難勧告を待っていたら死んでしまう、と考えた者である。
このとき、ほとんどディアスポラの経験のなかった日本人が、突如として正真正銘のディアスポラとなってしまったのである。

その直後、日本国政府はそれまで年間1ミリシーベルトだった安全基準値を、突如20ミリシーベルトまで引き上げた。
そうしないと、福島県の浜通と中通り全域、それに栃木県北部と宮城県南部までが人の住めない巨大な空白地帯となってしまうからである。
端的に言うと、国民の健康被害やもしかすると生命を危険にさらすかもしれないという可能性よりも、国は国民を土地に縛りつけておくことを優先したのである。

年間20ミリシーベルトがほんとうに危険なのかどうかは、ボクは科学者ではないのでわからないし、それについて特別に意見を言いたいわけでもない。
ただ、国家というものは常にしてそういうことをするのである、ということを言いたいのだ。
国民とは労働力である。
産業が、資本と労働力と土地を絶対的に必要とするなら、労働力である国民は土地とセットでなければならない。
国家の命によるなら、放射線のリスクについての専門知識があり、毎日被曝量を記録管理し、専門的な防御を施した原発作業員とおなじ基準の「年間20ミリシーベルト」の被爆地域だろうと、われわれ国民はそこにいなければならない。
それが嫌だとか危険だとか自分自身で判断するのなら、その先にまつべきは日本型の特異なディアスポラしかないのである。

程度と意味はおおきくちがえど、生命の危険を国が与え、それを拒否する者がディアスポラとなる。
その構造は過去の悲惨なディアスポラの歴史と、大枠で共通しているようにボクには見える。
(以下略)
---- 引用以上 ----

日本でディアスポラの概念が理解されにくいのは、国を(異常なまでに)信頼してる人達が相当数いるからなのかもな。
その国の一角にして最も根幹にあるのはのは、他ならぬ天皇制・・・。


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