えー、まとめますと…という感じでよろしかったでしょうか?

ブログ等色々のサイトにチョコチョコ書き込みしている私ですが「多少なりとも纏め的なことが書けたらな」ということでここに☆

『3・11大震災 シリーズ27 放射線を浴びたX年後 ビキニ水爆実験、そして・・・』というのを観て

2012年01月31日 06時54分47秒 | memo
「NNNドキュメント’12 『3・11大震災 シリーズ27 放射線を浴びたX年後 ビキニ水爆実験、そして・・・』」
(1月29日(日) 24:50~ ナレーター:鈴木省吾 制作:南海放送)
http://www.ntv.co.jp/document/

〈1954年。18ヶ所の漁港に鳴り響くガイガーカウンターの音。水揚げされる被ばくマグロ。南太平洋から戻るマグロ漁船の船体や乗組員の衣服、頭髪、そして魚からも、強い放射能が検知された。アメリカが太平洋で行った水爆実験は、広大な範囲で大気と海水と魚などを汚染。「放射性降下物」は、日本やアメリカ本土にまで届いていた。しかし事件から7ヶ月後。被ばくマグロが続々と水揚げされる中、日本政府は突如、放射能検査を打ち切った。数日後、両国政府が文書を交わし、事件に幕を引いたのだ。人々の記憶から消え、歴史から消し去られた被ばく事件。なぜ、これまで明るみに出なかったのか。そこには、両政府の思惑と人々の切実な思いがあった。8年にわたる取材から事件の全容を浮かび上がらせる。〉

というのを観ました。

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NNNドキュメント|日本テレビ|2012-01-30(月)0050 TVでた蔵
http://datazoo.jp/tv/NNN%E3%83%89%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88/541489

2012年1月30日放送 0:50 - 1:45 日本テレビ
NNNドキュメント

『3.11大震災 シリーズ26「放射線を浴びたX年後 ビキニ水爆実験、そして…」』

2011年3月、原子炉から放出された放射性物質がばら撒かれ、繰り返された「直ちに健康に影響はない」という言葉が人々を一層不安にさせた。元高校教師の山下正寿さんは27年にわたり、かつてアメリカが太平洋で行った水爆実験による放射能被害を調査してきたという。山下さんが撮影してきたフィルムには被爆者らの言葉が収められていた。

1954年3月1日、アメリカがビキニ環礁で行った水爆ブラボー実験がマグロ漁船「第五福竜丸」を襲い、乗組員たちは被曝し、その6ヶ月後に亡くなった。キャッスル作戦と名付けられた水爆実験は3ヶ月の間に6回行われた。そして「セシウム・ストロンチウム・ヨウ素・プルトニウムなど」が放出された。尾野スミエさんはこの事件で立て続きに夫・兄・義兄を亡くした。

高知県土佐清水市に放置されていたマグロ漁船「第五住吉丸」はかつて「第五福竜丸」と同じ海で創業していた。住吉丸を発見したのは当時高校教師だった山下正寿さんと生徒たちで、被曝したのかどうかを調査したという。それから山下さんらは調査活動を開始し、3年に渡る調査の結果、被災者の消息判明者は241名で、内77名が被曝により亡くなっていた。

山下さんの調査は高校教師をやめた後も継続され、長崎県南島原市口之津町に趣き、事件の被爆者である貨物船・弥彦丸乗組員の家を訪ね調査を行なっていた。調査のさなかで山下さんは被爆者である崎山船長の漁業日記から被害の実態を辿ることが出来た。

漁業日記には1954年2月24日に幸成丸は2週間を掛け南太平洋を目指したという。3月1日にアメリカは1発目の実験となる水爆ブラボーを爆発させ幸成丸の通信長は無線を傍受し福竜丸が死の灰を浴びたと判明したという。その頃、幸成丸はマーシャル諸島へ向け進んでいた。そしてアメリカが定めた危険区域を避け11日からマグロ漁を始めたという。

1954年3月27日にアメリカは2発目の水爆ロメオを爆発させ、幸成丸にも死の灰が降り注いだ。生存者の一人である桑野浩さんは当時被っていた帽子が自身を守ってくれたと考えているという。また同じく生存者の松野繁樹さんは知らず知らずのうちに除染をして助かったという。港に帰った幸成丸を待っていたのはマグロの放射能検査であり、またマスコミなどで港は騒然としていたという。

幸成丸の構成員は、命がけで捕って来たマグロが目の前で廃棄処分になっていくのを見ているしかなかったという。幸成丸の被曝は読売新聞などの新聞でも取り上げられ、乗組員も全員が被曝量を測定されたという。高知県室戸市に住んでいる崎山船長の妻・順子さんは当時は船員に補償がなければいけないとうを口にできない時代だったと物語った。

水爆実験後、海流により日本に迫る放射能汚染で日本近海の魚も被曝していたという。その年の延べ992隻が被曝した魚を廃棄した。ところが水爆実験から僅か7ヶ月で日本政府は突然にマグロの放射能検査を中止した。その4日後にアメリカとの文書に当時の2百万ドルで事件に幕を閉じる決断を下した。日本大学の専任講師であり、放射線防護学が専門の野口邦和さんに乗組員が浴びたであろう放射線量の算出を依頼し、乗組員の被曝量は10時間その場にいるだけで急性障害をきたすほどの量だったという。

神奈川県横須賀市に住んでいる有藤照雄さんは幸成丸構成員の数少ない生き残りで、事件後は自身の体験したことを家族にさえ言えなかったという。その後に妻の光江さんに被曝したことを明かしたという。国から被曝したと認められていない有藤照雄さんたちは補償を受けることが出来ずにいる。2年前に南海放送が入手したアメリカエネルギー省(旧 アメリカ原子力委員会)の秘密文書にはキャッスル作戦による世界規模の放射性降下物の詳細が克明に記されていた。

放射性物質の広がりを示す地図に幸成丸の航路を重ねて解説し、幸成丸の被曝は当事者であるアメリカの機密文書によって裏付けられたという。また実験の1年前には既に122ヶ所の観測所が設置されていた。このことから専門家はアメリカは世界規模の汚染を承知していたのではと語った。広島市立大学広島平和研究所講師の高橋博子さんは、当時アメリカが水爆ブラボーがアメリカ本土で爆発したと想定し、どの様な被害がでるのか検証していたことを突き止めたという。アメリカは第五福竜丸事件から僅か2年後に核実験を再開し、レッドウィング作戦・核爆弾フラットヘッドと核爆弾テワを投下した。そして1962年にもドミニク作戦で世界最強の核兵器を手に入れた。

高知県宿毛市に、生存者僅か2名という船・新生丸があった。11年前に岡本豊子さんが自宅に帰ると夫・清美さんが倒れて亡くなっていたという。マグロ漁船・新生丸も死の灰を被った船で、清美さんは乗組員だった。1988年5月11日に初めて被爆者救済を求め、高知県にてビキニ被災船員の会が発足された。代表世話人となった清美さんは議会に働きかけ医師と連携し自分たちで健康調査を行い被曝の事実を国に認めさせようとしていた。その後にビキニ被災船員の会は会員の死亡が相次いだことで解散を余儀なくされた。

調査を始めた頃は40代の現役高校教師だった山下正寿さんは今では高知県太平洋核実験被災支援センターにてビキニ環礁での被曝実験を解明し、被災者を救済したいと活動を続けており、ビキニ被災で影響を受けた人にも原爆手帳を申請するよう求めている。日本中を放射性物質が覆ってから60年が経った2011年に再び放射性物質が日本に降り注いだ。

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「アメリカって酷い国だなぁ」と思った。
日本漁船等に被害が及ぶことを予め予測しながらも自分の国の軍備の充実を図るために核兵器の実験を断行したりしたのだから。
アメリカの首都ワシントンで水爆が爆発したという想定で200キロ離れたフィラデルフィアでの被害を測定するための実験をしていた、とか。その200キロ地点が第五福竜丸の久保山無線長らがいた場所だった、とか。
公式には一応「想定していた危険区域よりも広い範囲に影響が出てしまった」とかそういうことになっているのかな。
でも、分かんないですよねぇ、広島、長崎に落とした原爆でも立前は「戦争を早く終わらせるためだった」と言っているようだけど、それならば一発だけでよさそうなものを。
実証実験、人体実験の側面もあるんじゃないかとかって疑いたくもなるというものです。

世界を支配する側からすれば「多少の犠牲はしょうがない」と考えるものなんでしょうか。平穏な生活を踏みにじられた極東の島国の名もなき漁民などは「運が悪かったのだ」とかとでも考えるのでしょうか。
「共産独裁体制のソ連からアメリカが頑張って“自由”を守ったのだからいいじゃないか」ってことなんでしょうかね。

それにしても日本政府というのは「長いものには巻かれろ」「寄らば大樹の陰」てな具合で、自国民を守ろうとはしないものなのかなぁ。