えー、まとめますと…という感じでよろしかったでしょうか?

ブログ等色々のサイトにチョコチョコ書き込みしている私ですが「多少なりとも纏め的なことが書けたらな」ということでここに☆

「人間中心主義」か、「システム(役割)中心主義」か

2012年03月08日 07時01分47秒 | 考えていること
またまたぼくの「推測的日、欧米比較論」でございます。
今回は「欧米の“(全人的)人間中心主義”」対「日本の“システム(役割)中心主義”」でございます。
(前にもこんな話書いたっけ?書いてないよなぁ、たぶん)

“人間中心主義”というのは「良くも悪くも」ということでございますね。
昔は、黒人奴隷は“人間”じゃなかったし、女性というものも一人前の“人間”としては認められてないところがあったかもしれないし、基本的にアジア、アフリカの人間なんてのは「野蛮で未開なものたち」という理解だったのではないでしょうかね。

でもまぁ、一旦“人間”として認められ“人間”に昇格すれば、快適で最適な人間らしい生活を追及する資格が与えられるという感じでございますかね。

「人間らしい(全人的)生活」というのは、“自由”が認められ、家庭を大事にし、仕事を持ち、地域活動をし、政治活動もし、休暇も十分取り…、といったことにでもなるのでございましょうか。

これに対して、日本では「システム中心主義」「役割中心主義」であったのではないでしょうかね。
「“人間”なんてのは、自然の一部にすぎず、それほど価値の高いものでもない」くらいに思ってきたとでも書くと言い過ぎになるでございましょうか。
日本では「人の命」がそんなに大事にされてこなかったのではないかという印象がぼくにはあるのでございますが。
たとえば、切腹とか心中とか神風特攻隊とか、何だか“自死”を美化するような価値観があるように思えるのでございますがね。「形あるものは壊れる」「滅びの美学」「諸行無常の響きあり」といった陰が日本には付きまとう感じがしないでもないかなぁとぼくには感じられるのでございます。
(これに対して一神教の人々というのは“神”という“永遠、永久の存在”につながっている人々という感じがする)

そんな価値観が人々の背景にあるのではないかと。
その上で人々の振る舞い方は「システム中心主義」「役割中心主義」なのではないかと。
たとえば「働かざるもの食うべからず」で「とにかく人間ん、仕事をしていて自分の【食い扶持さえ確保していればそれで良しとされる存在なのだ」(※)というような感じ、社会的やくわりとして「仕事をする役割を果たしていればそれだけで足りる存在」として見なされてしまう。「【穀潰し」という言葉を初めて聞いたときには「ひどい言葉だなぁ」と思ったものでした。

“システム(役割)中心主義”だから会社にあっても、転勤、単身赴任、過労死なんて非人間的扱いも受け入れてしまう。

社会に対しては「自分はこれこれの正業を持ち日々せっせとそれに勤しんでいるのだから、政治家は政治家、役人は役人としての正業をしっかり果たしてもらいたい」という期待感で見るのみで自分から積極的に動こうとはしない。

人々とのつながりに関しては“仕事を縁”としてつながる関係のみで、“地域を縁”とするつながりや、“趣味や宗教を縁”としたつながりを持たない人が多くを占める社会に、我々の社会はなってしまったのではと思うものでございます。果ては“家庭崩壊”なんてことにも。

「まず、システムありき」と考える日本人は、“システム”という“全体”の中にポジショニングされた自分をその役割において最適化することに心を砕き、自明であるシステムを変えたり、壊したりということにはうまく手をだせない人たちなのではないでしょうか。

これに対して“(全人的人間中心主義)”の欧米などでは、時代時代によって“人間”にとって快適、最適でなくなってしまったシステムについては、みずからの手で変えたり壊したりすることが当然のことになっているのではないのでございましょうか。

自らの手でうまくシステムを変えられない日本人には、もう古くて変えなければならないシステムを壊すのに“外圧”が必要となるわけでございますね。

日本を変えるためには「人間、仕事をしてさえいれば一人前の存在」ということから「人間、あれもやればこれもやる(全人的)存在」であるということへの人々の価値観の転換、そういうことが可能となる“余裕の持てる生活”を後れるような政策の策定などが必要となってくるのではないでしょうか。


※ 子供の教育でいえば「学校のお勉強さえしていれば、家の手伝い等、ほかの社会的役割等には関心を持たなくても良い」という教育のされ方、とか。


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