mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

再三延期ゴールに到着できるか

2021-04-07 05:33:54 | 日記

 昨日(4/6)、高校の同窓会の再々延期の「お知らせ」が届いた。
 当初は2020年5月に設定されていた。喜寿記念と銘打っていたが、数えで77歳ではなく、満年齢で77歳。高校3年時から60年記念。数えでいうと、卒後還暦ということになる。でもそれは、コロナウィルスの襲来であえなく半年延期。しかしそれも、あちらこちらの緊急事態発生もあって、2021年5月に再々延期となっていた。それをさらに、2022年5月に再三延期しますという「お知らせ」。
 つまり、数えで80歳の傘寿記念の「同窓会」ということになる。
 ま、延期は致し方ないし、すでに去年の開催に向けて、参加者から参加費用も集めてしまっている。しかも、60年ぶりの「同窓会」というが、正確には同窓の「同期会」であった。本当に(男のだが)平均寿命までよくぞ生き延びてきましたという記念となる。
 いやそこまで生きているかどうかわからないよ、という方はいなかったのであろうか。それとも、この年まで寿命が続いた事を考えると、そこまで生きているかどうかは、どっちでもいいよ。もし死んでいたら、皆さんにお別れのメッセージくらい読み上げてもらって、彼岸に渡ったお披露目でもしてもらえれば十分です、という気分にもなるか。
「お知らせ」には「高齢者を対象にしたワクチン接種に、開催への希望を繋げています」と書いてあった。ふむふむそうか。ワクチンがあるか、といったんは思った。
 ところが、すぐ脇のTV番組では、ワクチンの効き目はせいぜい半年とか、変異株のウィルスとなると、ワクチンが利かないかもしれないなどといっている。さらに加えて、ワクチン接種をしたら、用心しなくても感染しないわけではない。社会的免疫ができるとなると、さて、いつまでかかるかわからないとコメンテータがしゃべっている。
 おいおい、大丈夫かよ。
 でもまあ、八十まで生きることが出来たんだから、細かいことはどっちでもいい。世話役を買って出ている「事務局」の方や、「現地幹事役」を引き受けている何十名かの方々のご苦労に感謝して、ぜひとも実施しようという意気込みに敬意を表している。
 なんとかこちらも、来年までは元気でお会いできるように頑張ってみようか。そんな気分になっている。


十年目突入で自然に戻った山の会

2021-04-06 07:24:42 | 日記
 
高齢者の山の会、8年

 私の主宰する山の会が満8年を終え、9年目に突入した。新型コロナの外出禁止の呼びかけはあるが、公共交通機関を使わず登山口までのアプローチを行って、上って帰ってくるのなら構わないだろ......
 

 去年の記事を読み、そうか、十年目突入なのかと改めて思った。この一年間も、しかし、計画通りにはいかなかった。コロナウィルス禍の山歩きということで、それまでと違った山行形態をとることが多くなった。車によるアプローチとテント泊である。

 kw夫妻が車でアプローチするようになり、電車やバスの方々にも、それによるアプローチを案内して、現地で合流するようにした。当然のように、kw夫妻と私という車アプローチ組だけの山行が多くなり、それはそれでキャンプ遊びの面白さというのを味わうきっかけになった。

 テント泊は、しかし、意外な発見でもあった。山歩きのベースというよりもキャンプ遊びだけのためにやって来ている人たちが多いことが、わかった。さらに、そのような人たちは寒い時期になっても、暖房設備をテントに持ち込んでくるなどして、豪勢なテント場は、予約でいっぱいになるほどの盛況であった。テント初心組のkw夫妻は、11月を最後にテント泊をやめ、寒くなってからは日帰りだけになった。加えて、基礎体力の差なのか、長年の経験の違いなのかわからないが、私とは登るペースが異なり、疲れが抜けず徐々にたまる年齢ということもあって、私とは行を共にすることも、ほぼなくなった。

 加えて、正月からコロナウィルスにともなう緊急事態宣言は発せられ、「県外への越境自粛」の呼びかけが首都圏では出されて、登る山も限定されるようになった。冬場の山小屋が閉鎖ということもあり、日帰りの県内山行。つまり「足慣らし山行」という名のハイキングばかりに出かけた。ときどき、何人かの人たちが加わってくれたので、私の単独行というのばかりではなかったが、おおむね、仕事を引退した後の「週1山行」に戻った。ま、自然に戻ったのだ。

 ただ、ハイキングのような、私一人で歩くことのできるコースである。いずれ、山の会の人たちにも(てんで勝手に)足を運んでもらえるように、アプローチと山行記録とを「紹介」する記事を、山の会の皆さんに送信してきている。

 私自身の裡側でちょっと違った関心が湧いていることもある。詳しくは、また別の機会に記すことにするが、自然に戻ったうえに「県外への越境自粛」が解かれたのなら、今のうちに歩ける山へ行っておこうかという気持ちが、むくむくと頭を持ち上げてきている。いつも記すように、「山行計画」を立てるときから、すでに山には登り始めている。これまで行っていなかった山を経めぐる旅に出ようか。しかしそれも、どれほど体が持つか。連続して何日も歩くと、へばってしまうんじゃないか。そんな心配をしながら、登りたい山をピックアップして、回るコースを考えている。当然、花の季節を狙うということもある。大型連休を避けるのも必須のこと。梅雨もいただけない。となると、時期が限定される。ま、そんなことを考えながら、十年目の山の会が始まったわけだ。


どう生きるかという哲学的思索

2021-04-05 10:10:14 | 日記

 「ハフポスト日本版 2021/04/04 」号に面白い記事を見つけた。《地方から京都大学へ。その時まで、僕は「教育の地域間格差」の本当の根深さを知らなかったのだ》という長い見出し。ライターは「編集・湊彬子」。本文記事中の「僕(28歳)」の名前は出ていない。
 青森県の「ありふれた地方都市」で生まれ育った「僕」。当地の大人たちが口を揃えるありきたりの「人生すごろく」に気がめいっていたときに「東北を出るなら東大か京大かな」「東大か京大へ行くなら、人生何をやってもいいよ」と親に言われて奮起し、京大にすすんだ。
「ここからはシナリオのない宇宙旅行だ、全部ガチャガチャにしてやろう、と僕は意気込んだ。……(が、気付いたことは)周囲との大きなギャップだった。……多くの人にとってシナリオの通過点だったこと」。
 つまり「僕」が(地方都市)青森で感じた「人生すごろく」は(都会育ちの)人たちにとってはすでに常識のように浸透していた、これじゃあどこにも「シナリオのない宇宙旅行」に出かける冒険的人生の出口がないじゃんと気付いた、というお話しか。
 というと、そうでもない。
 その前に、「僕」のみていた「人生すごろく」と、大学で見かけることになった(都会育ち)京大生たちの歩んでいる「根本的なライフコース」とは「解像度が違う」ことに目を止める。
 この「根本的なライフコース」に関する「解像度の違い」とは、視界の広さ、視程の深さ。それが学校教育によってだけでなく、身を置いて来た社会の文化的な豊潤さによって異なっていると気づき、教育格差ということを語るときに、そこまで解像度の違いを見極めているかとして、次のようにいう。

《日々生きている環境から、人は「自分の選択肢の可能性」を受け取っていく。周りの大人たちが歩んでいるライフコースやライフスタイル、耳に入ってくる周りの人の雑談、街から受け取るインスピレーション…。例えば、小学校の友人の転校先だって「選択肢を示唆するもの」になる。日常に転がる瑣末な情報の集まりが、僕らの意識や解像度を構成していく。/そして、最も重要なこととして、「自分がどんな日常から作られているか」について、客観的に省みることはとても難しい。僕たちは意識するよりも前に僕たちになってしまっている。》

 ライターの「編集・湊彬子」が、何をどこまで想定して視界に収め視程に入れようとしているかわからないが、「解像度の違い」とは生きることへの哲学的な要素を含む視線がどれほど身に備わるように継承され体現されているかということである。逆にいうと、「ライフスタイル」だけに目を止めると、哲学的な要素は抜け落ちて、ノウハウ的な伝承だけになる。だから「根本的なライススタイル」と名づけて、「どう生きるか」と思索する次元をかえていく道筋をつけているかどうか。そういう文化的な気風を社会的に醸し出す力を、私たち大人は子どもたちに受け渡してきたかと問うていると思った。
 しかも、《僕たちは意識するよりも前に僕たちになってしまっている》。
 大人が意識して「どう教育するか」という以前に、大人も子どもも共に身を置いている日常性に、どれほど「どう生きるかを思索する次元」が盛り込まれているかがモンダイと投げかけている。「教育」という意識的行為ではなく、「育つ/育てる」営み自体が自然に行われている日常の生活家庭や社会に、哲学的な視線を組み込んで行かなくてはならないのではないかと、問題提起しているように私は読み取った。
 振り返ってみれば、国会審議の埒もない空疎な「ことば」のやりとり。それを良しとする「エリートたち」の振る舞い。政治家ってしょうがねえなあと慨嘆する大人たち。腐っても鯛としがみつく役人たち。憤懣をぶちまける方途を見失ってヘイトクライムに興じる若者たち。ワシャ知らんもんねと趣味に没頭する私たち年寄り。その実態を報道する種々のメディア。それらが、何もかも、皆、若い人たちの「人生すごろく」を素っ気ないものにし、どう「すごろく」の階段を這いあがるかというノウハウばかりに満たされて、何だか面白くねえなあと、気を腐らせている。若い人の自殺が増えているというのも、じつは、ひとりひとりが哲学的に「どう生きるかを思索する」ことへ足を届かせていないことによるのではないか。
 もしそこに踏み込む伝手をもつことが出来れば、たとえ世の中に絶望するほどニヒルになっても、ひょっとすると「超人」として永遠回帰を持ち応える根柢に足場を見つけることが出来るのではないか。そんなことを思わせる「記事」であった。


「かんけい」の気色(3)薄い文化の着物

2021-04-04 08:38:02 | 日記

 この話題から、しばらく離れていました。さて本題に戻しましょう。
 この3月で退職する若い方の話しで気が付いたことは、時間と空間が移動速度によって変わるのが、ヒトのモノゴトの認識に深くかかわっているということ。つまり、早く移動するときに(移動主体の認識が)捨象するというか、抽象されてしまう空間の諸々のものに、気を止めてみると、ヒトビトがそれぞれ抱懐している「空間」と「時間」との相関的総合である「せかい」認識は、ずいぶんとズレたりかけ離れたりしてしまうに違いない。ことに、近代化して「移動速度」が速くなると、人びとはそれぞれ、違った世界をみていることになります。
 とすると、それらを総合して謂うところの、「科学的」とか「客観的」という「世界」とは何であろうか。逆にいうと、そういう違いがあるにもかかわらず、その違いを意に介さずに「せかい」について語り合っている人たちの、なんと無神経なことよと、我が越し方を振り返って、臍を噛む思いをしている。しかも実は、違った「せかい」をみせているのは、移動速度だけではない。視力の違いがある。マサイ族の視力は「5・0」とどこかで聞いたことがある。私たちは「1・5」を「ふつう」として、それ以下の視力で世界をみている。だが、「5・0」となると、8倍の双眼鏡でみているようなものなのだろうか。むろん動体視力も関係するであろう。
 その、視力の極めていい人たちがとらえている「せかい」を、現代社会に置き換えて言えば、いわば、「専門家の眼力」である。「オタクの目」といってもいい。あることに集中して心を傾けていると、その世界のことが「飛び込んでくるようになる」と言われる。野草に詳しい人たちは山道を歩いていて、こともなげに野草を見つける。鳥観の達者は、生い茂る樹木の葉蔭にいる鳥を、裸眼で探し、双眼鏡で確かめる。「どこどこ?」と、達者の双眼鏡が向いている方を傍らの私などが探しても、見つからない。
「達者の人たちがみているせかい」を、私たちも見ているように思うのは、「その人たち」を介在させて「みているせかい」なのだ。そこに「その人たち」に対する「信頼」が差し挟まれている。つまり私たちはその「信頼」の根拠が奈辺にあるのか(と自分の内心に問うて、そこ)に思いを致してはじめて、自分の抱懐する「せかい」に、少しばかりの客観性を付け加えることが出来る。客観的にみているのではない。言葉を換えていえば、「ふつうのひとたちのみているせかい」を(多数派と信じて)感じているにすぎない。「すぎない」とはいうが、もちろん、それはそれで大切なことである。「すぎない」というのは、自分の目で「みているわけではない」、「眼力のある人への信頼を介在させてみている」のだということ、もっと言葉を換えていえば、自分自身の視力ではみえないと知ることである。
 トランプがアメリカの大統領として登場したとき、旧来の知的ピラミッドの上層部にいた人たちは、「予想外の結果」に驚愕した。だが、庶民からすると、ホンネ剥き出しにして商売に専心する自己中心的な世界的リーダーの登場に「不安」を感じはしたが、既存の権威の表皮をはぎ取ったことが、アメリカの大衆的支持を得たのは、旧来の知的ピラミッドがもはや人間世界の「かんけい」の気色として、「信頼」に値しないとみなされたのだと、みてとった。では、トランプの言動が、旧来の知的ピラミッドに代わる「なにか」であったかというと、とんでもない。彼のホンネではあろうが、私たちの肌合いにはざらざらした感触しか感じられない、いやな代物であった。旧来の社会的市場経済のピラミッドの、旧来的な道徳性の表皮をはぎ取ったエッセンスに過ぎなかった。だから、いわば社会的に鬱屈した不満層の感情を動員し、敵をつくり、憤懣をぶちまけ、ヘイトクライムと暴力の行使を正当化して、わがままに#ミー・ファーストを叫ぶことにしかならなかった。
 トランプ登場に感じた「不安」とは、それまで人類が築いてきた「知的な力」とは、いったい何であったのかと、疑問を感じたことであった。トランプ治世の4年間に「学んだこと」は、彼が引っ掻き回した世界をふくめて、為政者の化けの皮がはがれたことであった。自由社会であれ専制社会であれ、統治が本質的にもっている政治の原的抑圧性であり、それは同時に、社会に不可欠の秩序が必要とするものでもあるということであった。薄皮とは言え、人類史的な「道徳」の表皮がそれなりにはたしている効用であり、それすら取り払ってしまうと、何が「人類史的共有物」と呼べる文化になるのかと、未だに感じているヒトとして纏っている「文化の着物」の正体である。
 ひとつだけ、確かな実感として感じているものが、ある。「文化の着物」の正体の本体は、この身体性である、ということ。それはしかし、「本体」というより「本態」と呼ぶのがふさわしいほど、「かんけい」的であり、移り変わり、しかし、身から身を通して、それが心の習慣をまといつつ受け継がれてきているという「事実」こそ、たしかな実感である。
 いまいちど、そのたしかさの実感から考え直して、人類史的な径庭を振り返ってみてはどうだろうと、トランプ後の世界が向かう先に(はかない)「期待」を寄せながら思っている。


彼岸からの便り

2021-04-03 07:06:34 | 日記

 昨日(4/2)、「郵便が来てるわよ」とカミサンが2通の郵便物をもってきた。表書きを見て驚いた。
 先日(3/7)のこの欄で「いたるところに青山あり、か?」と記した、タイで逝去した私の古い友人の手になる、あて名書きだ。
(いつ投函されたのか?)と思って、日付をみると「27/03/2564 09:25:46」と、分秒まで記載されている。2564というのは、(たぶん)タイの「元号」だろう。日本の「起源2600年」というのと同じと見た。でも、彼が火葬されたと知ったのは3/7。まさしく「彼岸からの便り」。
(どうしたことだろう)と思いつつ、封を解く。記録の意味もあるから、全文を記し置く。

《突然お手紙を差し上げ、驚かれたことと存じます。
 さてこの度、私は。死亡もしくは脳関係の病気などに見舞われ、意思の疎通が不可能となりましたので、この事をご報告いたします。併せて、今迄のご厚誼を厚く感謝申し上げます。
 私の妻は外国人で日本語に疎いですし、タイに住んでおります。従いまして彼女から皆様に斯様な事をお伝えすることが出来ませんので、こういう事態の前に、私が事前に文をしたため、何かあったら郵送するように依頼しておいたものです。なお死亡せず、回復するようなことがあったら、ご連絡させて頂きます。但し、まずそういうことがないと思っておいて頂けると助かります。
 それでは皆様方の今後のご健勝を切にお祈りし、併せて繰り返しになりますが、今迄の御厚誼に深く感謝を申し上げます。
 2010/4/19              * * * 記す。
追伸 振り返って自分の人生、有りすぎる程色々な事がありましたが、「まあまあ」かと思います。そしてこれから永遠に回帰します。》

 2010/4/19 とは何か? 
 思い当たるのは、2020年の4月19日ということ。ちょうど一年前(2020年)に彼は、医者から十二指腸辺りに「異変」があると告げられている。ひとりの医者は「すぐにでも手術をしないと手遅れになる」と言い、セカンド・オピニオンを別の医者に求めたところ「急ぐことではないが、精密検査をしてみましょう」と意見が分かれ、どうしたものだろうと、私とe-mailでのやりとりがつづいていた。そして5/2に検査入院することまでは当方に伝わっていたが、その後音信が途絶え、こちらのメールに返信もなく、ナニカがあって彼は死亡したのだと私は思っていた。
 つまり、医師とのやりとりで何がしかの重篤な病に冒されていると感じた彼が、「遺書」のつもりで私宛の「手紙」をしたため、もし万一何かあったら、「投函するよう」奥さまに依頼していたのもが届けられたと思った。
「追伸」で、「まあまあ」の人生だったとみているのが、(私にとっては)天啓のように聞こえる。彼がどのような出自で、何に思い悩んでいたのかを、じつは私はほとんど知らない。家族関係に関して、ひどく重い鬱屈を抱えているとは感じていたが、踏み込んで聞いてみようと思ったことがなかったからだ。そこはかとなく知っていることと言えば、彼の仕事中のことやリタイヤしてからの、年に1,2回会うかどうかに口にした話くらい。どのようにしてタイの方と知り合い、結婚し、向こうに住むようになったかも、日本に来たときに奥さまに会って、紹介されたことがあった程度。深く踏み込んで詮索したわけではないから、「知っている」とさえ言えないように感じてはいた。薄情なのかな、私って。
 先月の24日に、この古い友人*の(兄嫁に当たるのであろう)「義姉」さんから、「*が3月3日に膵臓癌で亡くなったこと」を知らせる手紙が届いた。(遺品のなかに)私からの郵便物があり、奥さまが日本語を書くことが出来ないので、代わって知らせることとなったと断り書きがあった。すぐに私は「お悔みとお知らせを感謝する」返信を書き、昨年来の「憶測」と今年に入ってから、*と共通の友人y105とのやりとり、その後の国際郵便でのいきさつを記して送った。その義姉さんからの「お礼状」が、上記の*からの国際郵便とともに着いた、もう一通の郵便物であった。これも、*がわだかまっていたのとは異なる「家族」との関係を思わせる上質さが伺われるので、紹介しておく。

《芽吹きの季節を迎えました。この度は、心暖まるお返事を頂戴いたしまして、ありがとうございました。/*さんは日本への帰国をとても楽しみにしていましたが、素敵なお友達との再会をなさっていたのですね。/心を開いて、母国語で語り合い、飲んだ日本酒はどんなに美味しかったことでしょう。/お世話になりました。/40数年来のお友達にめぐり会えた裕さんは本当に幸せ者です。重ね重ね御礼申し上げます。/y105様にお目にかかりました際には、どうぞよろしくお伝えいただきたくお願い申し上げます。/コロナ禍にあって不安な日々が続いております。あなた様の御健康をお祈り致しております。/感謝のうちに かしこ》

 毎年帰国したときに会って話をしたとき、*は、父とも母とも「和解」することが出来たこと、お二人の葬儀に立ち会うことが出来たことを話していて、最後に話したときに(それが)「良かった」と思いを込めて漏らしたのが印象的であった。
 その「良かった」思いと、義姉さんのお便りと*自身の「遺書」にある「まあまあ」の人生という感懐とが、人の行きつく自然の到達点のように(私の胸中に)響いている。まさしく「彼岸からの便り」である。