mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

義妣の生誕104年

2020-12-25 09:39:21 | 日記

 今日はクリスマス。子どもが小さかった頃はクリスマスよりも、イヴの方が忙しなかった。カミサンはケーキを作り、子どもたちは冬休みに入ったと喜んでいた。今は孫も爺婆と遊んではくれない齢になったから、イヴはなくなった。ケーキもなく、おでんで夕食を済ませた。コロナ禍かどうかも関係ない静かな一日という訳だ。
 12月25日は、信仰心の無い私にとっては、少し前から義母の誕生日であった。どうして?
 じつは、彼女が80歳の時にエジプトへ一緒に行った。ナイル川やピラミッドを見て回り、モーセが十戒を授かったというシナイ山にも登って元気であった。同時に好奇心も旺盛であった。ちょうど彼女の誕生日と重なってツアーの会社がささやかなお祝いを夕食の時に組んでくれて、じつは誕生日を知った。
 太平洋戦争のニューギニアで夫を亡くし、4人の子どもたちを育ててきた大正生まれ。10年前に94歳で亡くなった。高知のチベットと言われた僻地に暮らし、脳梗塞で倒れる直前までよく歩き、ゲートボールに興じ、翌月の旅行を楽しみにする活動的な年寄りであった。
 8月の末、朝起きてこないので家人が部屋に行ったら、脳梗塞を起していたという。中心部の診療所に救急搬送された。だが何しろ山奥のこと、いつもならドクターヘリで高知市内へ運ばれ、入院手術となるのだが、動かさない方がよいという医師の診断で、その場で手当てを受けた。翌日に予定されていた「健康診断」のために夕方から水をとらなかったという。猛暑の一日であったから熱中症が引き金になったのだろうとカミサンの姉妹たちは推定していた。
 でもどうして義妣の生誕104歳と半端な数字なのか? じつは明治生まれの私の母が亡くなったのが104歳であったから、義母が生きていればと思い出したのであった。
 わがカミサンは「コロナ禍も知らず、長女が脳梗塞で倒れてリハビリ療養中であることも知らないで逝ったのは良かったかもね」と、坦々と振り返る。十年経ったせいもあろうが、この齢になると(母が)亡くなったことをあらためて悲しむ感性は沸いてこない。もう自分たちの番が来ている。ましてコロナのせいで死に目にも会えず、お骨になって帰ってくるというのでは、悲嘆の度合いが違う。「良かったかもね」というのは、残される自分の側にとって良かったという意味かもしれない。
 私たちの親の世代が、案外長生きなのは、戦後の経済成長と医療や衛生環境の充実とが貢献しているとは思う。だがそれ以上に、明治や大正生まれの人たちの生きてきた環境が、自ずと足腰を鍛えるように作用していたからではないかと思う。
 さきほどカミサンの故郷を高知の僻地と言った。そうと知ったのは結婚の承諾を得るために高知の梼原に足を運んだ昭和41年のこと。高知駅で乗り換えて須崎駅で鉄道を降りる。梼原行のバスに乗り4時間。くねくねとくねる道を走って山の峠を越える。「辞表峠」と呼ばれたとカミサンが話す。赴任する人が、まずこの峠を越えるときに辞表を提出すると笑っていたのを思い出す。でもその峠は、まだ半分ほどの入り口。さらにいくつもの山を越え梼原町の中心部に着く。そこでバス乗り換えて、さらに1時間。四万十川の上流の支流にあたる四万川という字の残る奥のバス停で降りる。ほらっ、あそこが家よというカミサンの声に励まされて歩きだす。バス停から30分もかかったかと思ったほどだ。まさに高知のチベットと呼ぶにふさわしい佇まいであった。むろん、チベットを知っていたわけではない。話に聴いていただけ。チベットを実際に訪ねたのは、定年退職してからであるから、そのときから40年ほど経っていた。
 いまはトンネルが抜け、舗装路が奥の奥まで通じている50kmだから、マイカーで須崎から1時間もあれば到着する。だが便利になった分だけ、意識して歩かないと、体は車社会に適応して歩けなくなってくる。つまり、大正生まれの義妣が元気であったのは、運転免許を持つわけでもなく、ひたすら自分の脚で歩いていたから。80歳でシナイ山に上り、エジプトへの旅に行けたのも、便利コンビニの社会の機能性に適応せずそれを利用するだけにして、身を処してきたからであったと、妣の世代の生き方を振り返っている。
 心すべし。便利コンビニとわが身の適応とを意識して峻別して、生きていけと。コロナ禍の中でも、この分別が意味を持つように思うのだが、それはまたあとで考えてみよう。


名無しの山、羽賀場山

2020-12-24 09:55:46 | 日記

 昨日(12/23)、たぶん今年最後の山へ出かけた。羽賀場山774m。栃木県の鹿沼市にある里山。里山というのは地元の人には庭のように慕われているが、全国区ではというか、山歩きを好む人たちの間ではさほど関心を払われない低山という意味で、私は用いている。栃木百名山の一つ。
 東北道を走り、鹿沼ICで降りて進む前方に雪をかぶった男体山がひときわ高く姿を現し、その右へ大真名子山、小真名子山、女峰山と、やはり雪で真っ白になった奥日光の連山が居並ぶ。ここ一週間の天気が、関東地方には乾季をもたらしてよく晴れて寒い日々となっているが、日本海側には強烈な寒気と大量の降雪をもたらしている。それを象徴するような(日本海側の)景色に、思わずため息が出る。冬がやって来た。
 羽賀場山は地蔵岳や古峰ヶ原など前日光の山々の東側、関東平野との端境に展開している。鹿沼の市街地側からみると前日光や奥日光の山々の前衛になる。前衛の黒々とした山並みの向こう側から背を伸ばして顔を出すように白い奥日光の山々が聳えるのは、なかなかの壮観である。羽賀場山の山頂に上ればもっと見事に見えるのではなかろうか。今日の山への期待が膨らむ。
 大盧山長明寺はnaviに入っていない。住所を入れるが、精確な番地までは入力できない。ま、近くへ寄ればよかろうと考えていたが、一つの字が広いから、naviの「案内」が終了してから探すのにちょっと苦労する。お寺の下に来て羽賀場山の名の由来は「はかば」ではなかったかと思った。山への傾斜に沿って上に位置する長明寺の下の方には、たくさんのお墓が並んでいた。まるで裏の杉山をご神体にして墓守りをする気色が何となく立派に感じられる。
 車で境内への道を上って山門の裏手に入り込むと、ちょうど車を置くのに都合のよい広場がある。境内の隅を山の方へ入ったところで何やらユンボなどの大型重機が何台か入り込んで大掛かりな工事をしている。登山口を聴くと、その工事の進む前方を上ると指さす。礼を言い、車を止めるがと断ると、少し下へ降りた所の駐車場に置けという。一度引き返し、車を下へ動かすと建物の一階が車の置き場になっている。
 登りはじめる。たいへんな急斜面。キャタピラ付きのユンボが上るから広く凸凹している。上は砂防工事をしているようだ。道が二つに分かれている。入り込んだ右への道は行きどまり。戻っていると、作業員が重機とともに上ってきて、そっちじゃないよ、と左の道を指す。その先に小さな「羽賀場山→」の表示があると教えてくれた。広い作業道からはずれ、山の稜線を上る踏み跡があった。
 しかし踏み跡は、はっきりしていない。上る人が少ないのではなかろうか。谷の向こうに今日の目的の山、羽賀場山が見える。緑のこぶが三つ並ぶように盛り上がっている。なるほどこれが墓に見えるのかも、と思う。ただ植林作業の行われた後が段々になっていて傾斜も歩くのは容易。振り返ると麓の田畑と人家が、まるで隠里。高圧鉄塔が立ち並ぶ山が里を隠すように見える。そこからの高圧線を引き受ける第一鉄塔につく。20年前に発行された山と渓谷社の『栃木県の山』のコースタイムよりはちょっと早い。第二鉄塔を抜けるとすっかり杉林に入る。陽も差さない。約1時間で主稜線に乗り、羽賀場山への分岐710mに着く。やはりコースタイムより20分ほど早い。いいペースだし、疲れたという感じはない。
 そこからの稜線上が急な上りになる。握るこぶを作ったロープを張っている。足元には落ち葉が降り積もり、グリップが利かない。ロープが役に立つ。登っては下り、降っては上るをくり返す。20分余で羽賀場山に着いた。実はこの山名が国土地理院地図には記されていない。ただ標高だけが774.6mとあるだけ。山頂の標識には「羽賀場山774.5m栃木の山紀行」と記してある。ふと気づいた。この標高が地元の呼ぶ「羽賀場山」を「名無し」にしたのではないか、と。そういうシャレがわからねえかなあと国土地理院の地図製作者がジョークをかました、と。杉林に囲まれてまったく展望はない。
 先ほどの分岐に戻り、登ってきたのとは九十度違う東の方へ向かう。
 そうそう、この羽賀場山の登山ルートは地理院地図には記載されていない。山渓のガイドブックの略図を見て国土地理院地図の書きこみを見ながら歩いている。だから大体の見当をつけ、あとは踏み跡を見つけて歩いているのだが、落ち葉が降り積もり、踏み跡も定かではない。分岐からの稜線は広く、ところどころで二つ三つの支稜線に分かれているから、どちらへ踏み込むかは思案しなければならない。そのときスマホに入れたgeographicaの地図に打ち込んだ通過ポイントとGPSの表示する現在地点が絶大な威力を発揮する。おおよその方向を確認しては、それらしき踏み跡を探って踏み出す。こうして稜線の形と通過する等高線のポイントと向かう方向をチェックしながら暗くて広い杉林を、落ち葉を踏みしめてすすむ。これはこれでルートファインディングの面白さを湛えている。
 急な斜面を下る所では、そちらにもこちらにも歩くのに良さそうな足場がある。だがその先は、行き止まりってこともあって、木上りならぬ木降りになる。踏みつけた腐った倒木が落ち葉とともに滑り落ちる。バランスをとって転ばないようにする。気が抜けない。地図上ではこの方向に林道の末端があるはず。ガイドブックはそれより手前の、高圧線の下に出る前に林道に出逢うと書いていた。地理院地図より後に林道が延びたのだろうか。でも、下の方は、深い谷にみえる。空を見上げると杉の葉の間に高圧線が走っている。もう出合ってもいいはずだのに。
 立ち止まって暗い谷をみていると、目が馴染んできて、谷の様子が見えるようになる。沢筋と思われる向こう岸に、緑の苔と草に覆われた平たい所があると気づく。ああ、あれが林道だ。こうして林道に降り立った。ガイドブックのコースタイムより20分早い。地図に記された林道に出ると、さすがにしっかりとした設えになっている。両側は、相変わらず杉林。途中で「不法投棄監視パトロール」と車体に書いたバンが止まっている。誰も乗っていない。周りは大きく開け、木の切り出しが行われている。伐採の大きな重機が通るのか。ついでに植林もしているのか。陽ざしが明るく差し込んでいるが、人影は見えない。
 さらに降ると、3メートルほどに切った丸太を積み上げて干している。その山がいくつか見える。こうして何年か乾かして製材所へもっていくのか。民家が出てきた。誰かのアトリエもあるのか、案内看板が立てられている。後からバンがやって来た。あの「訃報と機関紙パトロール」だ。なかに6人ほどの人が乗っている。皆さん若い。前方からトラックがやってくる。これは丸太の積み出しを行うのか。
 おっ、釣り堀に出た。大きい。広い沢水をためた池にマスだろうかイワナだろうか、テカリの入った黒い身を寄せてたくさん泳いでいる。ベンチもあり、食堂風にもなっている。奥の方に人影が見える。私はまだお昼を食べていないのに気付く。11時半。
 奥の人に「イワナを焼いてもらえる?」と訊ねる。
「いいですよ、どうぞ」
「お弁当も食べたいのだけど」
「どうぞどうぞ」
 というわけで、食堂の中に入る。炭火が焚かれている。串に刺したイワナをもってきて炭火の脇に立てかける。塩を振っているが、イワナはまだ尾びれを揺らし体をくねらせている。ずいぶん大きい。そういうと、「焼くと小さくなります」と、申し訳なさそうに応える。
 60年配のお母さんが入ってくる。イワナの焼方を手ほどきする。なるほど、この人はお嫁さんらしい。羽賀場山に上ったと知ると「何かあるんかい?」とお母さんは訊ねる。
「ここら辺の人は上らんよ。皆東京の方から来た人ばかりだね」という。
 栃木百名山にもなっているのは、栃木県の広報戦略か。地元に人にとっては林業の杉山として大切にしているだけで、上り歩く山ではないらしい。ま、そうか。そういう里山があっても不思議ではない。
 イワナの炭火焼きは美味しかった。串刺しのそれを見たときは、済まないことをしたかなと思ったが、塩のたっぷりついた皮をはがしてみると、白い身が湯気を立て、ちょっと青い感じの香りを放つ。口に含むと、やわらかい舌触りが口の中でほぐれる。丁寧にほぐして目玉も食べてしまった。
 コロナが広がってから、釣り人が増えたそうだ。ことに日曜日はいっぱいになるという。明日で学校もお休みだから子どもたちも来ますよとうれしそうだった。
 30分程でお昼を済ませ、車を置いた長明寺に向かう。12時半着。4時間10分のコースタイムの行動時間がほぼ4時間。歩行時間は3時間半。まずまずの年末山行となった。


年賀――からっぽのありがたや

2020-12-23 18:58:40 | 日記

 去年の冬至は12月22日であったと、今朝送られてきた「去年のブログ記事」をみて知った。去年の記事は、この日に年賀状を作成したことを記している。じつは、なぜか今年も、22日。
 でも困ったのは、あまりめでたいと書きたくない気分だったこと。

 めでたいと賀状にかけぬ年の暮れ

 と思ってはいても、やはり賀状を出さないわけにはいくまい。でも、いつもの通りってわけにもいくまいと心裡のどこかで感じている。どうするか。結局、新型コロナの「啓示」したいることを胆に銘じて、慎ましくすること。ということは、必要最小限の方々に賀状は出すが、儀礼的な賀状はもう出さないと決めた。カミサンは「でも、貰ったら返事を出さなくちゃあね」と、正月を家で過ごす態勢の利点を生かす。おまえさんはどうするの? 私は、やはり出さない。そういうことを伝えもせずに? そう、どう受け取られるかは、人による。どう受け取られても構わない。そうやって消えていくのだねと、自分を得心させている。

 めでたいと言葉にならぬ初春かな

 全く下手な句だが、落ち着きの悪いところが今の気持ちを表している。新型コロナの自粛蟄居で、却って静かな生活を送っている。この、放っておいてもらえる佇まいが、なんとも私の今の気分にあっている。手紙のやりとりが好ましく感じられるようにもなった。昔は家を訪ねていって「年賀」の挨拶をするのがふつうであったか。今はメールなどで簡単に済ませる。その程度の心もちなのよと見切っていれば、それはそれですがすがしいと私は思うのだが、はて、どうだろうか。

 コロナ禍に年を越したりありがたや

 こんな気分になるとは、実は思ってもいなかった。めでたいという気分とありがたやと感じる気分とでは、ずいぶんと開きがある。でも、長い目で見ると、後者の方が自然観と人間観とを合わせて考えてみると実感に近い。この、自然に「ありがたや」と感謝の意を表明するのが、神道なのだと感じている。むろん、天皇家の祖神ということなど、長い年月にどっかへ行ってしまっている。お伊勢さんも、考えてみると、おかげまいりと言ってひたすらな感謝の象徴であった。天皇はんはカンケイなく、日本の自然信仰の結実した形かもしれない。御神体が空虚(からっぽ)というのも、好ましい。
 そうした気分になっている自分を、メデタイとおもっている。


これから明るくなる冬至

2020-12-22 08:59:58 | 日記

 昨日(12/21)は冬至。一年で一番、昼が短い。夕方、南西の空に木星と土星が近い所にみえるとニュースがいう。5時過ぎはすでに暗くなる冬至だからこそ、観察できるというわけだ。
 年末の掃除に取りかかっている。障子を張り替えたのは3年ぶりだろうか。大きいのを4枚、小さいのを2枚。こういうのを腰が重いというのだろうか。とりかかるまでに時間がかかった。とりかかってみると、さほどの時間はかからず、手間も割と簡単だった。年齢のせいかもしれない。
 網戸を洗う。かつては1日で済ませたが、いまは3日に分ける。山歩きと同じだ。行程16時間のロングトレイルを日帰りで済ますために、夜の夜中に出発して午後4時に帰着する強行軍をやったのは、まだ仕事をしていたころであった。今はそういうコースを3日に分けて歩く。齢をとるとはそういうことだ。
 先ず南側の網戸3枚を洗う。それが乾くまでに6枚の窓ガラスを拭く。2日目、西側の網戸3枚とガラス6枚を拭く。こちらは狭いベランダに乗り出すのでメンドクサイと思っていた。でも、やってみると、案外簡単であった。そうだよな。腰が重くなっているだけなんだ。残りは北側のベランダに乗る二つの窓。
 のんびり構えるというのは、身の丈に合わせるということなのだと思う。掃除をするというのにスタンダードはない。自分の家の掃除をするのをマイペースですすめるのに、誰が文句をいおうか。わが身の丈に合わせるのを自由というのであったか。障子の張替えもガラスや網戸の掃除も、準備を整えて置き、手順を踏まえてとりかかれば、メンドウでもムツカシクもない。腰が重くなっただけのことで自分を責めることもあるまい。
 昨日の夕食は蕎麦を打つことにした。5時過ぎからとりかかる。今日の蕎麦粉は北杜市の瑞牆山の麓のキャンプ場で手に入れたやつ。甲州蕎麦というわけだが、これまでの梼原の蕎麦とは味が違う。蕎麦粉の捏ね方も念入りにしないと、なかなかまとまらない。水を回し捏ねていると時間を忘れ、頭の中が空っぽになる。瞑想と同じ状態になる。あとになって気づくが、木星と土星の接近のこともすっかり忘れてしまった。
 読み終わった小説の喚起したイメージが胸中を揺蕩い、それを書きつけてわが身の裡の騒ぎを鎮めるのに、じつは午前中いっぱいかかってしまった。午後に年末掃除をのんびり手掛け、夕方に蕎麦を打つ。風呂を入れようとスイッチを押したのになかなか沸かない。カミサンが様子を見に行って「風呂の栓をしていなかったよ」と告げる。私が網戸を洗うとき風呂に蓋をおいて栓をするのを忘れていた。わお、お湯がその間こぼれっぱなしってことか。自分が蓋を置いたことも、スイッチを押すときにそういう確認を忘れていたことも、ひどいことをしたなあと身の裡に響かない。腰が重くなっただけでなく、何か失敗してもどこか他人事のように受け止めている。どうしてそうできる? 齢を取るとそういう失敗はするものだと観念しているからだろう、と。
 ハハハ、あれもこれも齢のせいにして自由になっているだけじゃないか。これって、自然に溶け込んでいるってことかい? 
 そうして今朝、ずいぶん明るくなったと感じて、枕もとの目覚まし時計を見る。なんと6時半に近い。いつも5時に起きるカミサンもまだ床にいる。冬至を過ぎたことで朝が明るくなるとカンネンしていたからだろうか。
 ま、そんなことどっちでもいいじゃないか。そう感じてすごしている、天然自然の一年の底に立つ日でした。これからは明るくなる一方だ。


元号と西暦と身の裡のふるえ

2020-12-21 11:15:39 | 日記

 昨日とりあげた夢枕獏『腐りゆく天使』の舞台の骨格をなしているのは、大正3年9月3日の午後9時17分から翌日の零時33分まで。何でそんなに厳密に?
 萩原朔太郎の詩集『月に吠える』に、月蝕の晩に彼の恋する人妻と逢っていたと書いているそうだが、調べてみると(厳密には、調べてもらってみると)、上記の時刻であったとわかった。大正3年、室生犀星や北原白秋、高村幸太郎や宮沢賢治、芥川龍之介なども活躍していく時代だ。
 そう考えていてふと、一つのことに気づいた。私の裡側では、いつも二つの年号が行き交い、棲み分けている、と。明治・大正や昭和の元号となるとわが身に刻まれた記憶が震える。西暦になると頭で理解した世界の流れが随伴する。その間の亀裂に気付いたのは高度経済成長がひと段落する1970年代の前半であったか。身に刻まれた記憶は元号と西暦の変換を(意識的に)ほどこさないと世界の流れに橋渡しできないようであった。
 大正3年は、明治生まれの私の父や母が3歳、5歳のこと。そこへ私の思いをいたしてみると、父母の子どものころの存念が浮かび上がる。商家の長男に生まれた父、富農の三男を父に持ち、三女三男の次女に生まれた母。母の兄弟姉妹は幼くして亡くなってしまった。加えて父(私からいうと祖父)が早くに逝ってしまったがゆえに母(やはり私の祖母)独りの手で街暮らしとなったと後に知った。
  大正3年は西暦で1914年。その7月にはヨーロッパで第一次世界大戦がはじまっていた。同じ7月に東京では、2年前に中華民国を成立させたのが袁世凱に乗っ取られた孫文が、中華革命党の結成大会を亡命先で行っている。世界史における日本は、一等国の波に乗ろうとイケイケの時代。大正時代というのは、日本の近代化が西欧の模倣から日本の独自性を育てていくときでもあった。そのように時代の感触を読み取るには、棲み分けている年号を重ね合わせていかねばならなかった。
 父母の送った大正時代へ目を移すと、経済史的には農民層の分解と呼ばれる社会的な大変動の進行する時代であった。富農とはいえ、男の子のいない(私の祖父が亡くなってみると)三男の家族は農家を継ぐことはできなかったようだ。大正デモクラシー隆盛の空気を吸って育ったであろう母は、目前にした女学校への進学もかなわなくなり、和裁の針仕事で生計を立てるしかなかったことを愚痴るメモが残されていた。そうやって、時代相に重ね合わせるには元号の刻む感触を、西暦の進行プロセスと二重写しにすることによって、実感に持ち込むことができた。
 それで思い出すのは、あがた森魚の「赤色エレジー」の歌詞。
「昭和四年は春も宵 桜吹雪けば情も舞う」
 と、ずうっと私は思い込んで口ずさんできた。「四年」が「余年」であることは、つい今しがた「歌詞検索」して知った。
 なぜ「四年」と思い込んでいたか。西暦にすると1929年。1923年の関東大震災からすでに6年、1926年には元号は昭和となり、1928年の張作霖爆殺事件で関東軍を前面にたてて軍部は、とどめようもなく勢いづいていた。1927年に金融恐慌があったとはいえ、秋にやってくる「昭和恐慌」を未だ知らず、国運を主導する勢力にとって気分的には、やはりイケイケの時代であったと、私の世界史感覚は受けとめている。ところが「赤色エレジー」は、まるでそういう世界の裏側に潜り込んで「お泪ちょうだいの物語」を謳うセンチメンタリズムに充たされている。私の元号感覚も、そうなのだと思う。クールに自分を観ようとすると、西暦に変換する。実はその齟齬にこそ、時代相をとらえる鍵があるようには思うが、未だそこまで踏み込んでいないと自らを振り返っている。
 こうした元号と西暦の二重性が消えているのは、平成になってからだ。すでに平成としてわが身に刻む感懐は、ない。平成の始まった1999年の私は46歳。時代はバブルの最盛期。
 時代相はたしかにイケイケであったが、グローバルの波に満ち溢れ、もはや元号に浸る気分は社会的に消え失せていた。だから保守層からは危機感が表明され、国旗国歌や元号使用も法的な拘束力を持たせなければ保持できないときに差し掛かっていたともいえよう。
  こうして、私の身の裡の元号と西暦の二重性は解消されてしまった。それとともに身に刻む感覚と世界の時代相に身を位置づける感懐とが符節を合わせて捉えられるようになったか。そうでもあるし、そう一言で括るわけにもいかないという感触も残る。ただ「令和」で身が震えることは、まったくない。ときどき「令和」を忘れていることに気づいたこともあるほどだ。
 その感触の一部分に、「腐りゆく天使」に書きこまれた「匂い」が関わっているように思えるのだが、それが何かは、わからないままである。