mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

サクラは満開

2020-03-25 05:59:51 | 日記
 
 昨日(3/24)、見沼田んぼの西縁を歩いてきた。カミサンは高尾へ草花を観察に出かけた。そうだ、と思って、私のお弁当も作ってもらった。氷川女体神社脇の「かかし公園」までサクラの様子を見に行ってこようと思ったのだ。
 家を出てすぐに、ただお弁当を食べてくるのはつまらない。お花見ならば、お酒も少しばかりあった方が良いと考え、西縁用水路入口のイオンフードへ立ち寄って、白ワインのハーフボトルを手に入れる。午前十時。
 
 ぶらりぶらりと西縁を行く。満開を過ぎて十割咲いているサクラがある。花の色が少し白い。オオシマザクラか。さかさかと歩く二人連れが追い越していく。のろのろとおしゃべりしながら前を行く数人連れを、こちらが追い越す。後ろから来た車がプープーと警笛を鳴らす。こんな細い土砂道へ車を入れるなよと思うが、テキさんは知ったこっちゃないと走り去る。
 風が強い。明の星学園脇の用水路の一カ所にさくらの花が散り落ちてあつまり、もう花筏をつくっていたりする。
 
 一週間前にほんの何輪かが花をつけていただけなのに、今日は、すっかり満開。西縁の両側からサクラの枝が延びて、花が水に映える。陽ざしがいっそう引き立てる。
 前を行く子どもの一人が、一張羅の半ズボンとブレザーにランドセルを背負っている。もう少し小さいおちびさんが、ランドセル様の布製の鞄を背負ってママに手を引かれている。追い越しざまに「もう一年生なんだね」と坊やに声をかけると、後からママが、「そうなんですよ」とうれしそうな声を上げた。サクラがまた一段と花開いたようであった。
 想えば30年前、この地に引っ越してきたときに、桜を観ながら何度もこの用水路沿いを歩いた。その頃幼木であったサクラが、いまはがっしりとした幹をくねらせ、道を覆うように枝を広げてサクラのトンネルをつくっている。いかにもわが世の春を謳うように咲き誇る。見ている私は、わが世の末だなと、適わぬ歳月を想う。
 
 ノカンゾウだかヤブカンゾウだか、カンゾウのやわらかい葉が青々と背を伸ばして、旨そうだ。でも以前は、縄を張って植栽していたようだから、摘んで食べるわけにはいくまい。それにしても、季節が早い。見沼田んぼには、ウメやモモ、ハナモモ、ユキヤナギ、サンシュユ、ヤナギなどの木々を養生しているから、そちらの彩とサクラの花の色が、大きな景観を総天然色にしていて、観るものの心もちを明るくする。風が強い。
 
 かかし公園の人出は、いつもより少ない。おや、1時間15分も掛けて歩いてきた。以前は、往復して1時間半であった。歩くのがのろくなったのか、サクラが歩度を下げさせたのかはわからない。かかし公園をひと回りして風当たりの弱いところのテーブル付きのベンチに腰を下ろす。と、ほどなく、女性の二人連れがベンチのまえに来て「ここ良いですか」という。「ああ、どうぞ」といって、瞬時に私は荷物をもって席を代えるべく他へ移る。ゆっくりお酒を飲みながら、お弁当を広げようとしているのに、女性の二人連れがいては、いやでもおしゃべりが耳に煩わしい。でも、こちらの気持ちは、たぶん、わからないだろう。
 50メートルほど離れた公園の反対側に移って、3人掛けのベンチに腰を下ろす。子ども連れがお弁当を広げている。小さな子がペダルのついていない自転車を両脚で蹴りながら走らせて公園を何度もまわっている。その姿を母親が目で追いながら気遣っている。
 絵を描いている六十歳代がいる。水彩画でもないし、油絵でもない。なんだろう。池にかかる稲荷神社の石橋が水に映るところに陽ざしが入るのを表現したいようだ。今日は風があるから、映りは昨日の観察だろうか。光の表現に工夫を凝らしているようだ。
 ここは見沼氷川公園だが、俗称が「かかし公園」。あの、
 ♫ や~まだのな~かの いっぽんあしの~か~か~し
 の作曲者だったか作詞者が生まれた地ということだ。いかにも、モダンになったそれらしい佇まいの人たちが住んでいるように思える。
 
 こうして1時間も過ごしてしまった。往路を戻る。帰るときの陽ざしが、サクラの見え具合を変えたように思える。カメラを出して、そこここと行きつ戻りつして用水路に垂れ下がるサクラを写真に収めている若い女性がいる。かぶさるような桜のトンネルが、遠景のその姿をかわいらしく浮かび上がらせている。
 3時間半の、気持ちの良い散歩だった。

感染経路不明の発症者が半数を超えた

2020-03-24 09:36:40 | 日記

 全国一斉休校という「緊急事態」の要請が解除され、いくぶん山を越えた感があった新型コロナですが、今朝のTV報道を見て、そうじゃないんだと見方を改めました。

 都知事が発表したのをみると、「昨日の発症者」も増えている。そのうち「感染経路不明」の発症者が半数を超え、「首都封鎖」も考えなくてはならなくなったそうです。
 都知事は「感染しても発症しない若い人が広げる可能性」を指摘して、注意を呼び掛けています。コメンテーターの専門家たちも、これから感染は爆発的に広がるとみているようです。ということは、専門家たちは、すでに若い人には相当に広がっているとみているようですから、年寄りはそれを前提にして防衛するしかありません。
 
 TVのコメントの片言節句をとらえて憶測するのは、あまり私の好みではないのですが、政府の方々や専門家(のなかに)は、事実を伝えると「風評被害が広がる」とみていて、(わが地区の感染の状況については)問い合わせれば教えると(文科省などは市町村教育委員会に対して)公言しています。つまり、国民は流言飛語に踊らされ、付和雷同する輩であるから、状況を伝えるよりも、対処法を教えるのが重要と考えているようです。エライのね、お上って。
 
 では、対処法を指示しているかというと、「全国一斉休校」という対処法を「要請です」と放り出し、その後は「各地教委の判断で」といい、当の「各地の感染状況は、問い合わせれば答える」というなんともバカにした態度です。ま、そうでしょうね。これほど国民をバカだと思わなければ、モリトモもカケも、桜を観る会も、検察庁の定年人事のことも、あれほど無茶というか、傍若無人なやり方はしないでしょうね。どうせ、奴らコクミンは75日たてば忘れると考えていなければ、恥ずかしくていられないでしょうね。
(何言ってんだよ、お前。そんなことを恥ずかしいなんて言っていたら、とうていトランプに太刀打ちなんかできないぞ。習近平どころか、金正恩にも、向き合っていられないぞ。平和ボケっていうんだよ、そういうのを。防衛の現実をみよ。自衛する気概をもて)って、言われちゃいそうですね。
 
 そういう政府の応対を観てますから、都知事の会見が、ずいぶん率直で聞くに堪えると感じてしまいます。
 都知事はそう言いませんが、「感染経路不明」というのは、公共交通機関、つまり電車やバス利用のことなのでしょう。「首都封鎖」などできるのかと、私などは思ってしまいます。
 首都圏という広大な単位で暮らすことを余儀なくされてきた人々が、小松左京の小説のように封鎖されてもどうにかなるというのは、そこを往来して生計を立てている人のことを思慮の外に置いているからです。首都を通過しない交通機関も(ないわけではないが)ほぼ機能マヒです。
 
  となると、やっぱり私たちは自衛するしかありません。のほほんと「平和ボケ」してきたツケが回ってきているんでしょうね。私のような年寄りの自衛としては、公共交通機関を利用しない。脚で歩く。車で行けるところには行くというのが、行動範囲になる。といって、近場の公民館も図書館も閉鎖している。イベントも自粛という。チケットを買ってある映画も上映中止となった。その払い戻しをどうしたらいいか、カミサンは電話で問い合わせたりしている。お花見だよ、お花見。
 
 こうなると年寄りの特権は、働かなくてもいいことだから、この状況を興味津々に愉しみつつ、見守っているしかない。世界的な大騒ぎだもん。新型コロナへの国別対抗対処法オリンピックってもんだよ。
 不謹慎だと道徳家からはお叱りを受けるかもしれないが、「国難」で埒外の私たちだ。これほど壮大なイベントは滅多にみられない。何しろ私たちの世代は、物心ついて以来、戦争がなかった。ゆっくり観覧させてもらおうではないか。戦死しても恩給は付いてこないけどね。

家畜化するヒト

2020-03-23 20:46:26 | 日記
 
 20世紀の半ばから、ロシア(ソ連)人進化生物学者・ドミートリ・ベリャーエフの行った「実験」があるのを知った。ダーウィンの進化論と異なり、突然変異によるのではなく、意図的交配によって遺伝的形質の変化が起こるという「実験」である。意図的交配というのは、人を恐れ近づこうとしないキツネを「家畜化」しようという「意図」である。研究は今も続いているらしい。
 
 3000頭のギンギツネのなかから従順な個体の、雄狐30頭と雌狐100頭を選び出し、掛け合わせていった結果、第四世代で、世話係が近づくと尾を振る子ギツネが現れ、第六世代では、一部の子ギツネは積極的に人間に接触をはかった。尾を振るだけでなく、クンクン鳴いた。また人の顔をなめさえした。そのような振る舞いをするキツネらを一括して「エリート」と名づけていたが、第十三世代にはその割合が、49%に達したそうだ。そして2005年にはすべての子ギツネがエリートカテゴリーに属し、ペットとして飼えるほどになった、という。
 
 そのことを紹介した本はリチャード・C・フランシス『家畜化という進化――人間はいかに動物を変えたか』(西尾香苗訳、白揚社、2019年)。それによると、ただ単に尾を振ったり、人になついたりするだけでなく、顔の幅が広くなり、繁殖期が長くなり、年2回出産するようにさえなったという。そのような形質の変化は(専門家たちのあいだでは)「家畜化の表現型」と呼ばれているそうだが、この著者はケモノに対するヒトのこうした働きかけが、実は人間に対しても行われているとみている(と思う)「誤植」をみつけたからである。こう記している。
 
《ベリャーエフが強調したように、人間を資源として利用するための鍵となったのは、人間の接近に対して耐える能力、一言でいうなら従順性である。ベリャーエフは、養殖場のキツネに対して強い人為選択を行うという実験により、従順性の進化を圧縮した。自然選択ならばもっとゆっくりと徐々に起こる過程を原理的に証明してみせたのである。》(エピローグ)
 
 上記文中の1行目「人間を資源として・・・」は、「人間が資源として・・・」の「誤植」であろう。文脈を読めば、それが誤植であることはすぐにわかるが、私は訳者が助詞を間違えたというよりも、著者フランシスが「家畜化という進化」の論述を通して一番気にし、強調したいことが、「人間を資源として利用する・・・」「家畜化」が進行しているという指摘ではなかったか。フランシスは、本文中に次のように記している。
 
 《わたしたち人間にも「家畜化の表現型」が現れている。人間が「自己家畜化」されているという見方が広まってきているが、ほとんどの哺乳類で、(初期段階で「家畜化の表現型」が)重要な役割を果たしている。》(p36)
 
 1960年代の前半に「サイバネティクス」が盛んに唱えられ、人間と当時開発が進んでいた電算機械との融合した形が研究開発されはじめた。それはヒトの身体性への機器類の補佐によるものばかりでなく、都市設計においても、企業の製造過程においても、産業設計においても、「人間工学」という言葉とともに急速に現実化されていった。それらはコンピュータの発展によってさらに広く深く細かく、人と(機械と)の共生の道へと進んできた。それは逆に人の側からみると、そのように設計された産業システムや医療や、知的分野も含めた社会システムにヒトが適応していくことでもあった。その象徴的なかたちが「人間の自己家畜化」ではなかったか。
 
 その「人間工学」の「意図」は、その時代の一般的な「人間」認識であり、資本家社会的な市場システムや国際関係における政治・軍事的な利用可能性であり、それらに共通する知的科学技術的「資源」としての「人間観」であろう。その「自己家畜化」の究極の(引き返し不能の)ポイントこそ「シンギュラリティ」と呼ばれる地点なのかもしれないと、思った。進化生物学の研究が、ブレーキをかけるきっかけになるのか、あるいはいっそうそれを促進する方向へ力添えするのか、わからない。
 
 そういえば、東浩紀が「動物化する人間」と名づけた人の変容は、ひょっとすると「家畜化する人間」と同じことを指していたのかもしれない。とすると、沼正三描くところの「家畜人ヤプー」になってきつつあるということか。ふ~む。

面白うてやがて哀しき・・・

2020-03-22 11:25:53 | 日記
 
 人はなぜセックスを隠微なものと思い、他人の目から隠し、しかしなおかつ、他人のそれを覗きたがるのであろうか。
 文化人類学者ジャレド・ダイヤモンドの『セックスはなぜ楽しいか』は、ホモ・サピエンスが進化の過程で辿った養育と生活資源確保の安定化のためのメスの戦略という仮説を立てていた。それは逆に、他の動物のセックスは楽しいものでも哀しいものでもなく、ただ本能の然らしむるところと規定することでもあった。つまりホモ・サピエンスだけがセックスを(楽しいことと)価値的にとらえている。「楽しい/心地よい」という感性が備わっていてこその「価値」ではあるが、どちらが先か後化は、どちらでもよい。相互的に発生したともいえるからだ。
 
 しかもセックスという極めて個体的な行為は、オスを日常的に確保しておく戦略となると、メスによって誘われ、楽しきものと思わされて関係が独占されるように働く。つまりオスにとってセックスは、本能的発情とは別に日常的に繰り返し誘発される所為となる。いや、本能的な(メスの発情によって誘われる)ことにとどまった種族は滅び、岸田秀が指摘するように本能が壊れて、日常的に発情している種族が、より適応して生き残ったと言った方がいいかもしれない。
 そう考えてみると、ことにメスにとってセックスは(オスを定常的に確保しておくべく)独占的に、秘匿しておくべき個体的関係の行為といえる。「不倫」に対する女性の側への(女性の側からの)厳しい指弾も、男性側の、どちらかというと緩やかな向き合い方も、単に男性中心社会だからというだけでなく、セックスに対する(進化生物学的な)男女の非対称性が、少なからず作用しているとみることができる。
 
 それにしてもなぜ、セックスは隠微なものと感じられるのであろうか。生理的なこととすれば、飲食や排泄と同じで、それ自体は隠すことではない。排泄はまた別の(不潔という)観念にかかわるから忌避されてはいるが、「快楽」を「罪」とする宗教的戒律とも関係するのであろう。あるいはまた、独占的な関係に置くことによって、いっそう秘匿することが「発情」を誘発する作用を組み込んだともいえる。それが逆にまた、他人のそれを覗いてみたいという出歯亀趣向にもつながるのかもしれない。
 その「出歯亀」趣向が昂じて、「覗き」を充たすべくモーテルを買い取って改造し、経営しながら二十何年かにわたって、何千人というカップルのそれを覗き、逐一記録し、感懐を綴り、老年となってそれを秘匿しきれずに、ドキュメントライターに託して公にしたいという振る舞いに至った人物の経緯を綴った本が出来した。ゲイ・タリーズ『覗くモーテル観察日誌』(文藝春秋、2017年)である。「記録」を託されたゲイ・タリーズは、「覗き」自体が犯罪であるとの観点から、これに同調はしないものの、これを続けてきた人物に興味を抱き、会ってそのモーテルの覗きをも体験し、ドキュメントライターとしての矜持を保ちながら、30年以上経った2016年に上梓したものの翻訳が本書。訳者は白石朗。
 
 ゲイ・タリーズがマッサージ・パーラーの取材をもとに、アメリカの性意識、性産業の変革を考察していた『汝の隣人の妻』に使ってもらえないかと、話を持ち込まれたのが、最初の出逢いであったという。話を聞くに、これは眉唾物かもしれないと思い、とりあえず会ってみようとしたところから、実名入りでなければ書かないと伝えること、許可をするまでは公表しないでくれと誓約書を書かされたこと、当の人物がモーテルを廃業し、その建物が人手に渡り、ついには解体されるまでを、一つのストーリーにまとめている。覗き趣向の当人も、その妻も、家族の写真も、当のモーテルの写真も文中に挟んでいて、いかにもニューヨークタイムズの内幕を描いた作品の著者らしく、ドキュメンタリーものという体裁を保っている。
 
 だが、残念ながら、覗き趣向をこのように満たして、このように「記録」した人物がいたという以上の、目新しい踏み込みや考察はない。ただ、読みすすむうちに、はじまりはただ夢中になってわが身を忘れ、コトが終わってみると己の姿が、何だかみっともなく、ばかばかしいものに思える、わがセックスの在り様と同じ。なんともヒトというのはメンドクサイことにかかずらわないではいられないものかと、慨嘆しくなる。読むのがうっとうしくも、厄介になる。でもまた、ほとぼりが醒めると、それがわが生きている原動力の根っこにどっしりと横たわっていることも感じる。セックスについて私は、(この年になっても)何もわかっちゃいない。人生も、メンドクサイものだ。こういうのを生苦というのかも。
 
 面白うてやがて哀しき・・・という感懐が残る。

キレンジャク

2020-03-21 19:04:57 | 日記
 
 水曜日に三毳山でヒレンジャクの群れをみてラッキーと思ったのでしたが、一昨日、秋ヶ瀬にヒレンジャクが来ているとカミサンへお知らせが入った。鳥観の達者たちのあいだには、そういう連絡網があり、それが回り回って伝わってくる。なかには丁寧に写真を添付したり、地図にマーキングをして地点を表示したり、人によってはGPSで調べなさいよと謂わんばかりに統計と北緯の経度と北緯の緯度を示して鳥のいた場所を教えてくれる。
 
 今朝はちょうと空いているというので、秋ヶ瀬へ行ってきた。暖かく、風もなく、長袖一枚で寒くない。昨日は強風が吹いていたこともあって、鳥が出てくるにはいい条件がそろってはいた。公園の解放されている駐車場は、いつもよりもたくさんの車がすでに止まっている。皆さん、何処からか情報を仕入れたのであろう、そそくさとピクニックの森へと向かっている。
 いたいた、スコープを担いだり、大きなバズーカのような望遠レンズをつけたカメラを据えつけた三脚をもって、たくさんの人が森の方を覗いている。覗かれている森の方にも、また別の一団がいて、ちょうど九十度の角度をもって、同じ森の中を覗いているのだ。
 と、3羽ほどの小鳥が小道の出口の方へ飛び去る。「あっちへ行ったぞ」と誰かが声を出し、ぞろぞろと移動が始まる。私も、移動する。
 
 小道の外を囲む少し広い公園の散歩道に、あちこちのギャラリーが集まってくる。そのスコープの除く方を見ると、枝に4羽のレンジャクがいる。頭の毛を逆立てるように立てているから、レンジャクだとわかる。ヒなのかキなのかは、尻尾をみないとわからない。双眼鏡を覗くと陽ざしを受けて見事にキレンジャクだとわかる。
 ヒレンジャクより少しばかり大柄だ。顔つきの赤色と歌舞伎役者が隈取をしたような目つきが、風格を表す。こんがりと焼けた茶色に色づいたお腹が、力士のお腹のように立派な感触を与える。垂れた尻尾の先は黄色い。畳んだ羽根の脇に黄色い斑が見える。
 ギャラリーが向こう側へ回り込む。そんなことをすると、キレンジャクも落ち着いて居られないよと思うが、案の定、キレンジャクは右の枝に飛び移る。また人が動く。すると、何羽かのキレンジャクが下の茂みに降りる。何羽かが、右の森へ飛び移る。茂みはこちらからは覗けない。
 右の森の方へ身を移して、レンジャクを探す。いたいた。キヅタの実を啄ばんでいる。ごそごそとキヅタの葉を揺らして、動き回る。頭が見える。尾が見える。全身が見える。というふうに、しばらく見惚れた。いやあ、よかった。
 
 ほかの方々は、まだ見終えそうもないが、私たちは十分満足。今年はラッキーだったねと、三度レンジャクに出会った出会った幸運を言祝ぎながら、帰途に就いた。駐車場に戻って車を外へ出したところで、カミサンに「知らせ」てくれた方が車でやってくるのをカミサンが認めて車を止めるということがあった。鳥観の達者というのは、何度でも「幸運」に浸っていたいというのかもしれない。
  買い物をして帰ると、ちょうどお昼の時間。アメリカ在住の作家から「アメリカの新型コロナウィルス」のコメントが入っていた。NY市などが行っている「外出禁止」というのは、食料品の買い物や銀行、金融関係の外出、日常の運動など以外は、出ると「逮捕」されるという。いやはや、私たちのように振る舞うのは、「論外の幸運」といわねばならないと思った。