mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「知っていることを知らない」ことを知っている?

2016-02-04 10:09:23 | 日記
 
 スラヴォイ・ジジェク『事件!Event』(河出ブックス、2015年)に面白い記述があった。アメリカの国防長官ドナルド・ラムズフェルドが2002年のイラク侵攻に際して行った記者会見で披歴したこと。ラムズフェルドは、「(われわれが)知っているということを(われわれ自身が)知っていること」「知らないということを知っていること」「知らないということを知らないこと」と分節化して、サダムが驚異的な秘密兵器をもっていることを浮かび上がらせ、イラク侵攻を正当化した。それに対してジジェクは、「知っていることを知らないということ」を見落としていると指摘して、次のようにつづけている。
 
《(「知っていることを知らないということ」が)実際、アメリカがイラクで直面した問題の主な原因だった。ラムズフェルドがそれを見落としたということは、彼が本物の哲学者ではないということだ。「知っていることを知らないということ」は、哲学の特権的な主題である。》 
 
 「自分が知っているということを知らない」ことを、《フロイトのいう無意識であり、フランスの精神分析家ジャック・ラカンが「みずからを知らない知」とよんだもの》と解説する。腑に落ちる。私自身がこのブログを書きながら、「自分の輪郭を描き出す」ことと考えているのと合致する。去年の8/23日のこの欄で、若い数学者・森田真生が『数学する身体』で記していることを引用した。
 
《ハイデッガーは「初めから自分の手元にあるものをつかみ取ること」あるいは「初めから自分がもっているものを獲得すること」こそが「学び」の本質なのではないかと論じる。》
 
 私が、教師という仕事をしながら考えてきたことをハイデッガー(と、それを引用する森田真生)は言い当てていると受け止めた。これと同じことを、ジジェクは(場を変えて)言っているのだ。
 
 ま、こうした諸「権威」のことばを借りて、私自身の思っていることを正当化しているのだから、私もラムズフェルド同様、「本物の哲学者ではない」。でも、自分の思索や判断の根拠を探り当てようと自らの裡に探求の目を向けているという意味では、哲学の亜種ではある。でも、亜種は哲学する庶民の特権である。根柢的に思索し通してはいない(と思っている)。「本物の哲学者」のことばを聞いて、「へえ」と思ったり、「なるほど思い当たるわ」と共感したり、「それって、アレと一緒だ」と自らのたどった経験と重ねたりする。そうやって、自らの輪郭を描き出し、世界をつかまえる。庶民の「知恵」というのは、そういう専門家のことばによって裏付けを得て、自らの亜種哲学を(自己)確信に変えていっている。専門家だけではないが……。
 
 哲学するということは、特権的なことだ(と私は考えている)。いつであったか、現象学者である友人が「知も欲望だ」といったとき、たしかに知的探求心も欲望の発露ではあるが、哲学だけは特権的なところに位置しているのではないかとやりとりしたことがある。「欲望としての知的好奇心」は是非善悪を考えない。その好奇心が何に依存しているとは(直には)考えない。科学的探究心は、それ自体は価値的な枠組みを簡単にとびこえて展開する。まさに「欲望」だからである。だから、わざわざ原子力研究にせよ遺伝子組み換えにせよ、倫理的問題と絡ませて、その「限界」を詮議しなくてはならなくなっている。
 
 しかし哲学は、「知的好奇心の行き先」ではなく、その根拠を考えている。その根拠の最大のテーマは、(自己―世界の)存在とは何かであり、それを観る「主体」とは何かである。つまり世界の全体性の根拠に探求の眼が向いている限り、「知」も「科学」も「欲望」も包括する問いが、哲学的探求の「原点」であり「極み」である。分節化される前のギリシャ哲学の出発点を思い出させる。
 
 そして、その亜種であっても、その入口に立って庶民としての人生を全うしていることを、日々私はワクワク感じながら過ごしている。なにひとつ謗ることもなく、なにひとつ詫びることもない。すべてが存在したことであり、いまなお我が身とともに、現実に「ある」と感じていることであり、かつ、感じていないことである。「知っていることを知らない」我が身を感じている。
 
 ラムズフェルドを介在させてはいても、そうした、「哲学亜種である私」の実存に触れる言葉を提示してくれたジジェクに感謝したいくらい。至福の心もちでいる。
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