mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

魂の系統発生へ

2016-08-16 16:24:57 | 日記
 
 昨日ヘンリー・ソローの『歩く』に触れて、原初人間のつくりあげてきた「自然」との関係を手繰り寄せようと試みていたと記した。だがよく考えてみると、人類史は、その出発の当初から場面場面、局面局面を通じて身体をつくりあげてきた。腕が頭上に上がらなかったネアンデルタールと違ってクロマニョンが肩を回して腕を振り、モノが投げられるようになったのも、そうした適応のひとつである(ネアンデルタールは野球のボールが投げられなかった)。(幅はあるけれども)最適なかたちの創出身体が生きのびることになったといえる。
 
 もちろん(世界において)、場面や局面は一様ではないから、創出身体もまた、多様な形をなした。だからソローがたどり返したいと思った「自然」との関係は、じつは彼自身の身体性の中に埋め込まれていたものであった。むろん彼は、それに気づいていた。しかし個人ではなく、社会全体としてみた場合の(人間諸力)継承はどうであったろうか。
 
 一度つくりだされた創出身体が受け継がれていくとき、後々の世代はそれが累代の努力と継承によって創出されたものということを忘れ、生得の能力と受け取る。ところが、社会的な分業がはじまると、ある能力がある人たちに特化され、他の人たちは特化された能力に依存することによって、その能力を退化させるか、もしくは発達させないままに人生を送る。呪術が呪術師に担われ、戦闘が兵士に担われるように、社会関係によって、「自然」とのかかわりも(単独者において)全的な発達をすることなく、総じて人間諸力として保持されるようになる。
 
 つまりソローが、単独者として「自然」との関係をみている限り気づいていなかったのが、一個の身体性を超えるところに蓄積されてきた「社会関係」における「自然」とのかかわりであった。だから彼は、《「自然」に身を浸すと言っても、そう簡単に同調できない地政学的位置を押さえなければならない》という感想を私に、もたらしたのであった。
 
  「歩く」というのが自己の内面への旅であると、ソローは考えてもいる。その通りだと私も思うが、そのとき私は、「自己」の輪郭が「社会関係」と複合することによって茫漠としていることが気になる。単独者として「自然」とかかわるとみるには、あまりにも多くの社会関係によって創出された身体諸力を感じるのである。
 
 たしかに野生に身を置いて、自らを「自然」の一部として暮らすには、雨露をしのぐことにはじまり、あるいは家を建てて暖を取り、獲物をとって捌いて料理することも覚えなければならない。まさに獣のように暮らすことの素晴らしさにロマンを感じることを否定はしない。だが人は、共同性を高め、交通を発達させ、鉱工業の生産活動を行うことにおいて、着実に分業による協業という社会関係を発展させてきた。そのことによって(たいていの現代人は)、もはや自分一人では丸太小屋一軒建てることもできず、獣を捌くことも(たぶん)できなくなっている。
 
 そういう意味では、現代の人類史は、相反する方向へ身体を運びつつあるのかもしれない。一つは、運転技術の上手下手どころか、車のハンドルを握らなくても(自動運転車によって)思うところへ移動できる時代がやってきている。たぶん歩く能力は、間違いなく退化しているであろう。他方で、延命装置と臓器移植、治療法の進展や健康法の開発によって、人間の身体はこれまでになく長生きになってきている。
 
 いや、そうだからこそ、ソローのいう「歩く」が見直されてくるのだが、では私たちは、どこに視座を置いて、ソローの「自然」と一体となる「我ら」の暮らしをイメージすればいいのであろうか。ラッダイトも面白いと思わないでもないが、いまさら荒唐無稽な感は否めない。
 
 ちゃらんぽらんな私が、150余年前のソローさんに異議申し立てをしているのではない。彼の「歩く」にロマンを感じるというのは、彼の言説の行間に魂が発生し、それが受け継がれていくことを(究極のところ)期待しているように感じるからなのだ。「自然」に(我が身の)位置する能力の系統発生を、身にひしひしと感じて受け継いでいくところにこそ、あわせて魂が受け継がれているように思う。その魂も、「社会関係」の交雑さを併せて考えてみると、なんとも複雑で難しくなってしまった。
 
 どこかで(いくつかの利器だけを用いさせてもらって)あらためて原始生活にもどって、歩一歩と歩いた「自然」との向き合い方をヒトとしてしていなければ、魂の系統発生が保たれないと、いうのかもしれない。山歩き程度の「さわり」ではいけませんね。それこそ人生いたるところに青山ありという感触を見に感じとれるほどの自然への没入をしてみなさいよと、言われているような気がもする。さてどうするか。
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