mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

世界の違い

2018-09-21 06:02:21 | 日記
 
まるごとの存在を直感する生物的核

  今日(9/20)の朝日新聞「折々のことば」に戸井田道三のことばが取り上げられている。 《わたしには「生きがいを求める」というのがどうもうさんくさい気がします。いのち......
 

 一年前の記述をすっかり忘れていることに気づく。いや、何をいまさらとも思うが、あらためて読み返して、そうか、そうだよねと、2017年fjtmukanに同調している。それにしても、と思うのだが、鷲田が謂う「一つのいのちがここにあること自体が、他のいのちとの共生による一つの達成である」を、「できなくたっていいんだ にんげんだもの」とあいだみつおのようにいってしまうと、まったく違ってしまう。あいだみつおの「せりふ」は、戸井田が謂う「生きがいを求める」思考線上におかれている。つまり、価値的に戸井田がこぼした「うさんくさい気がします」という批評を、あいだは受け入れなければならない。鷲田の「……他のいのちとの共生による一つの達成である」の次元を見失っている。

 こうした次元の違いを感知しないやりとりを、近ごろ感ずることが多い。彼の人の言っていることに違和感を感じて言葉を発しても、受け付けてくれない。私は鷲田次元で言葉を紡いでいても、彼の人はあいだのように受け止めて、さらに言葉をつづける。私自身は、もうそれで、ことばをつづける気持ちを失う。そんなことが、けっこう多くて、私の「表現」の拙さを思い知らされている。

 人間観といってしまうと、なんだかそれも「ちがうよなあ」と身の裡のどこかがぶつぶつ言っているから、もっと子細に踏み込まなければならないのかもしれないが、魂と身体とか、自然観とアイデンティティとか、そんなことのどこかから始めるのは、途方もないことのように思えるし、たぶんその、彼の人の抱懐する「世界」と交錯するのはムリ、と感じられるほど「世界の違い」が横たわっているように思われる。

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