mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ポナンザと棋士たちと「わたし」

2020-11-16 10:30:24 | 日記

 将棋の面白さは、その指し手にその人の人生が現れるところにあると言われる。どういうことであろうか。大局観のことだろうか。守りを重視する人、攻めに傾きがちな人、そのバランスのうまい人ということか。それとも、攻守の局面局面に現れる棋士のクセのような重心の置き方やそのときの心もちのことをっているのであろうか。ぼんやりとそんなことを考えながら、中学生からプロ棋士になった藤井聡太の活躍をみながら、ああやっぱり、このあたりに壁があったかと思ったりしている。
 先日(2020/11/12)、NHKの「アナザーストーリー」という番組で、将棋AIとプロ棋士との対戦をとりあげていて、興味深く観た。
 チェスAIはずいぶん前に人との勝負に決着をつけたが、将棋AIはなかなか容易ではなかった。その違いが、手に入れた駒を攻撃に仕えるか使えないかということと簡単に紹介する。その違いが、攻守に関する展開の局面を飛躍的に増やすから、電算処理のAIにとっては手間暇かかることになるらしい。AI棋士のプログラマーの話を、なるほどと聞きながら、へえ、と思ったのは、このプロぐらなーはほとんど将棋を知らないということであった。
 このポナンザというAIソフトが出現するまでは、将棋に詳しい人がソフトを組み、実力の向上を図ってきたという。ところがポナンザは、これまで蓄積されてきた何万という優れた対局の棋譜を覚えさせ、さらにポナンザ同士で対局させて「経験」を積み、その学習をもとにして強くなってきたという。
 では、ポナンザが蓄積してきた「経験」とは、何か。手筋を憶えるだけというなら、プログラマー山本一成氏のプログラミングの力は、何処に発揮されているのであろうか。ポナンザの記憶力と、局面に臨んだときの演算処理の速さというだけなら、なぜ将棋AIの力量向上に、ここまで時間が必要だったのだろう。番組をみていながら、コンピュータの基本的なことを知らない私には、ふつふつと疑問がわいてくる。
 つまり、棋譜の指し手のもう一段深いところにある「判断」が「経験」なのではないか。駒の、どのような局面で、何に、どのような重きをおいているのか。それは、相手の駒との関係の、何に重点を置いて、どう評価しているのか。それを数値化して「経験」として蓄積するのが、開発者プログラマーの役割だったのであろうか。
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 面白かったのは、ポナンザが佐藤天彦名人と対戦したAIポナンザの第1局の初手。3二金と飛車の横に金を動かした。佐藤は頭を抱えて考え込む。
 それを解説していた加藤一二三が「こんな手を打つと、ふつう、お前、出直してこいと叱られる。」と言う。素人も素人、まったく将棋を知らない人が打つ無意味な手だとみなされる。
 ところがその第1局はポナンザの勝利となる。
 もう一つ注目する一手があった。
 終わりに近い中盤で、7六歩をポナンザが打つ。
 えっ? なに、これ、と佐藤は驚く。取られてしまえばそれだけの無駄打ちと見える。熟考の末、佐藤はその歩をとる。ところがあと後で気が付くのだが、それをとったために、自らの飛車の動きを封じることになった。深謀遠慮というよりも、思いもよらない打ち方をAIは学習してきていると思う。ポナンザが一切ミスをせず、坦々と勝つ鉄板勝負ばかりでは、AIとの将棋は飽きられてしまう。AIが学習した「経験値?」に組み込まれている手筋に、人はふつう思いつかない意外性が備わっている。将棋ソフトで腕を磨いた藤井聡太が快進撃を続けたというのも、この意外性の幅が先輩棋士たちよりも広かったことに拠っているのかもしれない。
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 もう一つ興味深かったのは、最初にプロ棋士とAIソフトが対決した2013年の「第二回電王戦」で、ポナンザが佐藤慎一四段に勝利したときのこと。佐藤慎一四段に対する口汚い非難が相次いだという。ところが、2017年のポナンザと佐藤天彦名人との対局で、名人が敗れたときには、よくやってという称賛の声が名人に寄せられたという。
 この違いは、なんなのだろうか。
 むろん、将棋に関心の深い人たちがこの対局を観ながら、自分ならこう打つなとか、あの一手はミスだったんじゃないかと見極めているから、佐藤慎一四段が負けたときに(自分が味わう悔しさもあって倍加して)「非難」として噴き出したのかもしれない。あるいは佐藤天彦名人のときには、やはりベストの対応手を打っていたと思っていたから、よくやったと、これも自分をほめるような気持で称賛となったのではないだろうか。
 その背景には、プロ棋士四段と名人という(将棋に関心の深い人たちにも達している)「権威」の違いが横たわっていると思う。素人の私には、(四段も名人も)同じように見えるが、佐藤慎一四段の指し手に(ミスだったんじゃないか、とか、あれで良かったろうかと、自分の指し手と較べて)疑念を持つような将棋に関心の深い人が、「非難」をするとは思えない。
 ただ、自分が負けたように感じて、その悔しさを「非難」としてぶつけるということは、わからぬでもない。そこには、四段だから(もっと良い手が指せたのではないか)と、選択の余地が指しはさまれる。名人のときには(あれ以上の手があったとは思えない)と、素直に求められる。そこには、「人間」の力量の(現在の)最高点として「名人」という権威が座っている。
 人間の抱く「権威」というのは、そのような自分自身の人生の写し絵のように内心に埋め込まれて、外へ向けて発露される。私自身の抱いている「権威」は、どうなっているんだろうと、興味は外へ広がる。
「アナザーストーリー」は、一つの出来事を三つの視点から検証するという構成をとっている。その視点の移動によって、TV画面をみている視聴者も、観る目を移していく。そのとき「わたし」を見つめる私の視線が複数となり、自分を外(あるいは超越的)から観る視点になっているかどうか。そんなふうに、考えさせられた。

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