mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

with-コロナ、with-distance

2020-06-01 10:51:52 | 日記

「wit-コロナ」という言葉をよく目にするようになった。「共生」するってことを言っているのだと、すぐに了解してしまう。だが、with-には、「一緒に」という意味ばかりでなく、「~と議論する」とか「~に対処する」という使い方もある。つまり「with」という言葉に込められた感触には、善し悪しを別として中動態的に表現すると、「~とかかわる」とか「~に向き合う」という意味合いがこもる。
 それが日本語に変換されるときには、対立的な部分と確執を醸して乗り越えていくという要素が消えてしまう。「一緒に」ってことは「同調的にでしょ」とか「仲良くするってことでしょ」と(人それぞれのもっている)善し悪しの価値観が自ずから組み込まれてしまうことが多い。その「人それぞれにもっている価値観」の多様性が、「with-コロナ」という言葉を使うやりとりの、ことばの社会的な幅になる。それを意識しないと、やりとりが錯雑して、議論ではなく言いっぱなしの演説会になる。
 
「対立を乗り越えて共にある(いる)」という(確執を醸す部分)が取り除かれてしまっている。「共生」という言葉に感じる馴染のなさは、自ずから組み込まれてしまう(同調的)価値意識が、ちょっと突き放されていることへの違和感かもしれない。
 しかしコロナという大自然と向き合うからには、すぐに全面的に同調するわけにはいかない壁がある。高齢者の死亡率の高さとか、感染性の強さという壁を乗り越えて後に、共生関係に入る。集団免疫という理論値をクリアするというのも、何十万人もの死亡者を犠牲に捧げていま、かなえられるのかどうかもわからない事態にたっている。でも大自然に暮らす私たちは「with-コロナ」のあり方に、身を馴染ませていくしかない。そういう未知の大自然と向き合っているという情況認識に、身が引き締まる。
 
 異質なものを身に馴染ませるやり方の一つに、異質なものと直に向き合うのではなく、別の物語を介在させて、その「悪意」によって今の事態が引き起こされているとみる見方がある。たとえば、チャイナウィルスだとか、CIAの陰謀だとか、どこかの生物兵器が試されたという陰謀論もその一つだし、いまアメリカで起こっている「警察官による黒人殺害」に端を発した暴動や略奪を極左の扇動によるものだというトランプの発言などもその一つだ。
 それらの流言義語的な発言は、それを発する人の(感性や感覚や価値意識や観念という)「せかい」の輪郭をあらわにしているのであって、コトの真偽を明らかにすることにはつながらない。だが人は、そのようなどうしようもないやり方を通じてしか、異質なものを身に馴染ませていくことができない。そういう哀しい存在だと、つくづく実感する。
 
 そう思っていたら、ForbesJAPANの2020/05/31号が、《ポストコロナの暮らしは「微生物と共生」を》と題して、伊藤光平というかたが研究している「都市環境微生物」という学問分野の知見を紹介している記事に出会った。
 伊藤は「微生物の多様性が保たれた環境は、人間にとっても良い環境である」と考えて、部屋や都市空間のデザインを考えている。思わずわが膝を打ったのは、微生物とわが身とは何十兆という細胞を介して親密に共生していることから、今回の新型コロナウィルスとの「共生」をどう図っていくかを描いているということだ。
 以前から私は、戦中生まれ戦後育ちの私たち世代を「雑菌世代」と呼んで、殺菌や滅菌という清潔をモットーとする豊かな時代に育った世代と違うと言ってきた。それほど生活に育ってきたわけではないと、自慢している。
 日本人にウィルス感染がそれほど広まらない「日本の奇跡」はひょっとしたらBCG接種の影響かと大真面目に専門家は問題に取り組んでいるそうだが、BCGどころか(今は製造禁止になっている)DDTまで頭から振りかけられて育ってきたのだと、何の根拠もなく自慢する。だがそれとは別に、この伊藤の「微生物の多様性を保つ環境」と私たちの育った「江戸の気配を残す風景が戦災で焼け野原になった原風景」とが、相似形にあるように見えることが頼もしく思えたのだ。
 
 部屋の換気にしても、空調ではなく風を通すという「自然換気」がベストというのも、理屈は抜きにして、わが身がその通りともろ手を挙げて歓迎している。
「窓を開けて換気することで室内の有害物質の濃度が下がるだけではなく、土壌など自然環境に生息する微生物が室内に入ってくるため室内の微生物の多様性を手軽に上げることができる」
 ひょっとすると、国土の7割が森林面積という先進国でも有数の自然環境を保っていることが、「日本の軌跡」につながってるんじゃないかと信じてしまいたくなる。別様にいえば、そもそも私たちはウィルスと共に暮らしてきたのだと、誇るような気分である。
 でも、新型コロナはそういった私たちの声を聞き入れるほどやさしくはない。まるで神のように聞き入れがなく、高齢者に厳しい死亡率である。
 with-コロナは「新しい時代の向き合い方」を要求しているのかもしれない。それは、「みんな一緒」ではなく、人と人が相応の距離をとって向き合う「with-distance」な暮らし方を考案していきなさいという、次の世代へのメッセージかもしれない。この「with-distance」における「with」は、「distance」を意識せよという神の啓示に思える。
 そのメッセージの受け取り手に、高齢者の私たちが含まれていなくても、それはそれで構わない。おまえさんたちの時代は終わった、というお告げでもあるからだ。
 with-coronae、with-distanceをひねり出して、子や孫の世代が頑張ってくれと願わずにはいられない。


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