mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

ケセラセラでいいんだよ

2019-03-04 19:31:21 | 日記
 
裁量労働が苦にならない

  ここ一月ばかりの間私は、裁量労働で日々が明け暮れている。一冊の本をつくろうとしている。ひと月経ってやっと、400字詰め原稿用紙にすると800枚くらいの原稿を削りに削って45......
 

 一読、これって、「私の平成時代」の話だよな、と思った。昭和時代の「仕事の仕方」がアナルコサンジカリズムの響きを湛えていたのに対して、平成時代はマニュアル化した、といおうか。ちょうどパソコンが大衆化し始めた1980年代の後半、まだ東芝のルポが3行しか表示されず、それが7行表示になってすごいと感心していた時代。クィーンという(7インチの)ワープロソフトがあって、日本語変換がうまくいかず、光陰矢の如しとうつと、荒淫・・・などと表記されて慌てて消すようなこともあったと、思い出す。学習というか、覚えも悪かった。

 つまり、平成に入るころからパソコン全盛の時代になり、ソフトをいくぶん自分で改造する手順、アルゴリズムを覚えたこともあった。あるいは、村上龍が「アルゴリズムは14歳くらいまでに覚える」と、若い人たちに期待を寄せて、それまでの、社会や人間のどろどろした闇を描き出すことをやめて、「明るい未来へ」舵を切ったことも、印象的に覚えている。

 アメリカの副大統領のゴアがインターネットを張り巡らすと宣言して取りかかったのが、1990年代の前半だったろうか。それが今や、世界を席巻し、資本家社会的な場面も含めて、すっかり世界を一つにつないでしまった。もちろんそれによって人々を取り囲む社会の様相も変わるのだが、その「時代」に適応しようとして変わっていく人間の姿が、私たち庶民が日ごろ接する「せかい」の様子を変えてしまう。その中で生きて自己形成してきた若い人たちは、アルゴリズムが「せかい」の規範だと受け止めるから、いい加減、ちゃらんぽらん、だらしない、中途半端な振る舞いやセンスや思考は、最悪のものとなる。是非善悪も、自分が決するものじゃないから、だれかちゃんと決めてくれよと適応する側からは声を高くしたくなる。

 かわいそうに。わが身をそこに重ねながら、私は慨嘆している。己の寿命程度しか「先」を考えられない私にとって、「先」は「未来」ではない。もうすぐ向こうに「彼岸」を観ているような気分だ。せめて若い人たちに、ケセラセラでいいんだよと声をかけるくらいしか、やれることがない。そんなことを思った。

 

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