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大峰山、高野山への慰霊の旅(2) 大峰山・山上が岳に登る

2014-08-07 11:09:05 | 日記

★ 「女人禁制」というモンダイ

 

 8月1日、宿の主人の好意で登山口まで車で送ってもらった。これで4kmほど楽をさせてもらう。途中、母公堂(ははこどう)を通る。役行者の母親が息子に会いに来て、ここで蛇に妨げられて止められたという土地。つまり女人結界とされていた地点である。いまはその結界が、蛇谷(じゃんたに)沿いのさらに奥に引っ込んで、大峰大橋が登山口になっている。20台くらい止められる駐車場があり、蛇谷の川を渡ったところに「従是女人結界」と記された石碑が立つ結界門がしつらえられてある。宿の女将の話だと、米軍の占領期に女性が登ろうとして、止めようとする地元の人たちと争いがあったという。

 

 また、1999年には共同通信の配信で「女性が登った」と報道されたこともあったそうだし、2005年11月には、登ろうとする30人の女性と地元民50人とが結界門でやりとりをしたと読売新聞の奈良版が報じている。それによると、いったん引き下がった登山者のうち3人が深夜に登山を強行、地元民もあえて阻止しなかったそうだ。wikipediaの「大峰山」では、「大峰山と女性登山という別項目を設けてほしい」という書き出し。そのあとに意味のよくわからないやりとりがつづいていて、とても読めたものではない。あるいは「奥駈道」の縦走には女人結界を通れないといったん山を下りて回り道をしなければならないと述べたり、髪を切って男装して通過したという記述もある。なかなか納まりのつかない論点が浮かび上がる。

 

 ことばを変えていえば、伝統的習俗と近代合理主義との衝突である。その伝統的習俗の中には、「なぜ女性をけがれたものとみなすのか」「出産した母親がお宮参りのときに子どもを抱いてはならない」のはなぜかという問いに、合理的には答えられない感性も含まれている。もとをたどれば「血」をけがれとみなす感性があり、なぜそうなのかと問われて合理的に回答できる言葉は見つからない。だが、私たちの今も持っている感性に「血」に対する畏れは、たしかにある。それがなぜなのかはわからない。その「畏れ」がなぜ「穢れ」かもわからない。だがそう感じる感性がある限り、伝統的に受け継がれてきた「女人禁制」を解けば片付く問題だともいえない。

 

 役行者の話も修験道も「だらにすけ」もそうだが、先祖から延々と受け継いできた身体と感性と切り離せない宗教性とは、私たちが持っている「信頼性」のよりどころである。安心したりホッとして身をゆだねて依存する「信頼感」の根源が、血族としての親や兄弟姉妹ということも、一概に言えないと、あまたの宗教が説いている。つまり即自的な感性の延長上に築かれていることではなく、対自的に、つまり意識的に身に備えていく要素が介在することによって、「信頼」の根拠が探り当てられる。当然そこに、合理主義の入り込む余地があり、でも同時に、「信じる」ことの理由を解き明かせない、私たちの精神の不可思議さがある。そこに突き当たっているように思う。

 

 まして、洞川温泉の地元の人たちが受け継いできた伝統的習俗の培ってきた「感性」を、よそ者である登山者が蹴散らして「改革者面」するのは、何を根拠にしているのかと、これまた疑問に思う。私は男であるから、「女人禁制」について、このように客観的なというか、平静な物言いをするのかもしれないが、宗教とジェンダーと登山とをひとまとめにして論議するのは、賢くない。かといって、地元の人たちは、別々のこととして受け止めてきたのではなく、まるごと受け継いできている。どこかに「正義」を求めるような論議はもはや無効の時代だということを考えると、大峰山についてこれをどう考えるかと限定するしかない。そのとき、地元の人たちの考え方をたまの来訪者がどう受け入れるかという視点も、欠かせないのではなかろうか。

 

 山頂の宿所の御坊は、女人が厳しい修行の妨げになることを前提にしているのかもしれないが、「天明天保の飢饉の折、(わが身と引き換えに)雨を振らせ賜えと捨身の行をして、西の覗きから飛び降りた修験者がたくさんいた」ことを話してくれた。そのような(凄惨な)場を女性に見せるわけにはいかないという趣旨だったかもしれない。これもまた、父権主義的な観点なのだろうか。あるいは、身を捨てる業の場に心惑わす女人がいては霊験あらたかというわけにいかない、と言いたかったのかもしれない。

 

★  行場と寺と山頂

 

 さて、大峰大橋を渡って女人結界から登山道をたどる。修験道の「行場」は、もっと上の方にある。一ノ瀬茶屋、一本松茶屋、洞辻茶屋と名づけられたポイントがあり、後の二つには屋根付きの休憩所がある。最後の洞辻茶屋1430mには店番がいて「土日にはたくさんの参拝者がある、平日は10人くらいかな」と話していた。ここまでモノレールがあると聞いた。物を運ぶための歯車のカムを備えた一本レールの箱だが、たまに乗せてくれという人がいて、一回4人で16,000円の運び賃を頂戴しているという。これじゃ修験者ってわけにはいかないね。この茶屋で、吉野山からの奥駈道と合流する。

 その洞辻茶屋からうえに「行場」がある。上りが岩場になり、ところどころに鎖があるが、一カ所を除いて危険というほどではない。危険なところには巻き道がつくられていて、難なく登れる。むろんすぐ脇を覗くと切れ落ちた断崖があるから、気は抜けない。鎖が張ってあり、それをつかみながら慎重に足を運ぶ。鐘掛岩1620mからは、洞川の集落が望める。金剛山や吉野山など、北と西の山並みが連なっている。台風12号が九州の西に差し掛かるから、雲が広がって見通しは利かない。

 

 尾根道を先へ進むと西の覗きへの分岐に出る。追い越してゆく行者姿の人が「西の覗きの行を頼まなきゃいけない」と、宿坊の方へ急ぐ。私たちは、まずそこへ登る。岩峰だ。祠がしつらえられている。ぼこぼこした岩峰の先に、「行」をする時に吊り下げる場所らしきところがある。TVで観たが、この世の迷いを断つ問いを発し、「はい」と応えるまでつりさげるという。この岩峰から、向こうの岩峰が見える。上は木々の緑に覆われているが、崖は見事に切りおちて裾の方の緑の木々に隠れてみえない。すぐ脇の看板に「行場修行は十分気を付けて行ってください。事故の責任は負いかねます。」と記している。自己責任でやりなされというのだ。いかにも「修行」ではないか。

 

 宿坊は5つある。じつはどこに私たちが泊まる予約をしたのかわからなかったのだが、洞川の宿の女将が「どれ、電話番号を見せてごらん」と言ってプリントアウトした書類をみせると、即座に「あっ、これは龍泉寺だ」と教えてくれた。一番手前、西の端の宿坊である。あとの4軒は、大峰山寺に近いところに一塊になっている。宿泊の手続きを済ませて、荷をおいて山頂へ向かう。山門の入口に「身口意三業を整え、参入召されよ」と看板が掛けられている。自ずから身を正すように背筋を立てて登る。大峰山寺の大きな金堂は薄暗く、奥の方で2人の僧侶が静かに作務を行っていた。お線香を求め奉納し弟Jの供養とした。        

 

 山頂はその先、広い笹原が広がり、長兄が「あっ、TVで観たのはここだ」と発見したように言う。彼はここまでの岩場と、つい最近TVで観た景観とがあまりに違うので、信じられない様子だったのだ。やはり小さな看板に「吉野熊野国立公園 日本百名山 山上が岳  1719.2m」とある。その脇の石柱には「大峰山上が岳山頂 お花畑」と彫り込まれている。だが、次兄のYが指さす方向へ50mほど踏み込むと、巨岩を囲い込む石柱の囲いの外に、三角点が置かれている。その上に置いてあった一部欠けた木片に「山上が岳」とあり、裏返すと「大峰山」と墨書してある。ひっそりとしたものだ。だが、次兄が向かわなければ、三角点を踏まずに、通り過ぎてしまっていたかもしれない。

 

 ふたたび大峰山寺に戻ると、十数人の修行装束の方が金堂から出てきて、喋り散らしながら山頂のお花畑へと向かっていった。口が整っていないと、思った。

 

★ 日の出を見る

 

 宿坊では、先ほどの口の整っていない修行装束の方々がお茶を飲みながら休憩をしていた。受付の御坊が筆をもって何かと書き物をしていたから、「お札」を差し上げていたのかもしれない。宿坊にはお風呂があった。汗を流す程度のものであったが、ありがたい。100m下からポンプで汲み上げているそうだ。食事は粗末なもの。シイタケと高野豆腐の煮物のほかは漬物とみそ汁。味噌汁はたっぷりあって、ご飯もお代りができた。

 

 この御坊から、修験道のことを聞いた。水銀や金や銀を探索採掘していたという役小角たちの由来も聞かせてくれた。「丹生」という地名が水銀と関係があると聞かされ、洞川に来るまでにその地名があった。それだけではない。三重県の丹生は水銀の産地ではなかったか。丹生という地名と水銀との関係も調べてみると面白いかも、と思った。

 

 南東から吹く風は、たしかに台風を思わせた。夕陽は雲間に隠れて見えない。雨が落ちてこないだけ、今朝の天気予報を裏切って喜ばしい。夜中には雨の音が屋根を叩いて、翌日の下山が 少し心配になったが、いつしか寝入ってしまい、目が覚めたのは4時45分。窓から見える外は一面が雲であった。だが、東の方の一部が、赤くなり始めている。雨はほんの少ししか落ちていない。雨具を着こんで外に出る。低いところと少し高いところに雲が厚く、ちょうどその隙間から陽の登る方向が見える。「あれはひょっとして富士山ではないか」と長兄が指をさす。雲がそのように見えるのか、事実藤さんなのか、双眼鏡でのぞいてもしかとはわからない。しかし、宿坊の御坊が「富士山は見えるよ」と言った方向に、いかにもそれらしい山のかたちが小さく見える。そのうち、赤みが強くなり、太陽の丸さが雲と雲の層の隙間からくっきりと見て取れ、ご来光を望むことができた。

 

★ 雨の下山道

 

 5時半朝食。6時半前に出立。雨具上下もスパッツも身に着け、まあ完全装備。雨は落ち、風はそこそこ。山頂部の笹原からレンゲ辻まで標高で250mほど下る。岩の段差の大きなところを踏む。雨でぬれて滑りやすい。ストックをつく。木の枝をつかむ。夜の雨に濡れてスパッツをつけたのが正解とすぐ分かる。長兄はバランスを崩さぬように慎重に進む。ゆっくりだが、この慎重さがないと危なっかしくなる。下山だけなのだから、急ぐことはない。40分ほどでレンゲ辻。

 

 ここに女人結界の門があり、その傍らに英文で「NO WOMAN ALLOWED」と書いてあったのであろう。NOの文字が削り取られるように消されている。その傷跡が、削り取った人の憤りを表すかのように、生々しく感じられる。この山に登ろうとした「占領軍の女性」というのをふと、思い出した。ここから大峰大橋に向けて降る下山路がある。稲村が岳からこちらに回ってきた人も、これより先は下りなさいと示している。

 

 稲村が岳へは、稜線を歩く。それほど大きなアップダウンもなく、ブナやカエデの多い、明るい樹林。だが雲が厚く、雨が落ち、大日山も稲村が岳も見えない。50分ほどかけて稲村小屋に着く。雨は大粒、激しくなる。大日山などへの登頂をあきらめ、洞川に向かって下山を始める。結構踏み固められている。1時間ほどで法力峠。あと50分、2.9kmと知ると、力が湧いてくるようだと長兄が言う。草臥れて、ぼちぼち歩くのは終わりにしたいと思っているようだ。たぶん、この下の谷は大峰大橋辺りになるに違いない。

 

 母公堂への分岐で「あと1km」と表示が出ていっそう元気が出たようだ。ところが、五代鍾乳洞をすぎたところで、ゴロゴロ茶屋への下山路をとったものだから、急斜面を降るようになってしまった。茶屋のすぐ脇に広い駐車場が設けられ、その片隅にゴロゴロ水が出ている。これはこの石灰岩の山の湧き水。鍾乳洞のなので湧く水が、反響を含めてごろごろと響いていたからその名を冠したと、宿の女将が話していた。名水なのだそうだ。それを無料でいただけるとあって、人が列をなして、もらっている。水の受け口はいくつもあるから、行列ができるほどではなかったが、駐車場の料金はきちんと支払わなければならない。「道路に駐車した方も支払ってください」と入口に書いてある。ゴロゴロ水は、駐車場管理者の生活費を稼いでいるようであった。

 

 祭りの当日とあって、街中は一段とにぎわいを増している。11時半。荷を預けた宿も、つい先ほどたくさんの人が来ていたと女将は笑う。風呂をつかわせてもらって荷をまとめようとしていると、女将が「まかないですが、召し上がれ」と、炊き込みご飯を用意してくれた。山頂の宿坊よりもごちそうに想えた。こうして、また来たいなあという気分をもちながらレンタカーに乗ったのであった。(つづく)

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