mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

私たちの戦後71年――神と仏の棲み分け

2016-08-05 14:32:17 | 日記
 
 混沌の最中にあるとき、「神も仏もあるものか」と口にすると物語りには記される。だが、むしろ逆で、混沌の中にあるほど、神も仏も身の傍らにいたと、子どものころの我が身を想い起して思う。言うまでもないが、子どもに神や仏がわかるわけがない。しかし、目に見えない世界が何処かにあって、人気のないお寺の境内や神社の森、山の中や夜の闇、あるいは寝ているときの夢の中がその端境に接していて、「何か不思議な力」が滲み出してくると感じることは、しばしばであった。寝ているときに天井が落ちてくる夢を見てうなされていたと、以前記したことがある。いま思うとそれは幼いころの空襲体験の悪夢ではなかったかと思うが、小学校6年生のころまで引きずっていた。何よりも夜の闇が暗かった。家の中にいても便所は暗かったから、一人で夜便所に行くことが怖くて、そのせいでおねしょをしたこともあったと、いま思う。
 
 子どものころに読んだ本は、ほとんどがリライトされた名作ものであった。巌窟王やマクベス、雨月物語や小泉八雲、聊斎志異や水滸伝など、どれを読んでも、不可思議な力が思わぬところから出現して、鬼面人を驚かすことに満ち充ちていた。これが実に怖く、寝床に入ってからもその物語の不可思議が手を伸ばしてくるように思えて脅えた記憶が想い起される。私が、そのような「目に見えない世界」を感じとり、(のちに知るところとなる)神秘主義に親和性を感じるのは、おそらく、混沌の中に人生を始めることになった「戦争・敗戦体験」があるからだ。
 
 そうしてあるときふと、「目に見えない世界」のひとつは、メタファー(の予兆)として私が感じとっている「世界」だと気づいた。2016/8/1のこの欄で《別様の在り様世界への共感性》を記したが、その「別様の在り様世界」というのは、もし運不運が別様に作用していたら、という(私の思念の中で)仮構された「世界」である。これも「目に見えない世界」同様に、メタファーとして想定されたことと言える。もちろん、私の想像(イメージ)世界の裡ばかりではない。知的な世界にも、メタファーはどんどん広がる。
 
 子どものころのラジオに「二十の扉」というクイズ番組があった。最初に「動物、植物、鉱物」と尋ねて、その特徴から正答を「当てる」クイズだ。そのときの私の胸中では、動物、植物、鉱物と世界の存在が別れていた。だが、それは分子科学の発達でたちまち端境が消え、どれも同じといえるようになってしまった。私たちの身体の構成原理が星屑の形成論理と同じであることも、ミクロの研究で解きほぐされてきている。メタファーは、人間の想像世界の裡に発するものではあるが、単にイメージだけにとどまっていることではない。そう思うことによって私は、私の知らない、私を超越する「向こうの世界」がありうることをいつも感じるようになった。
 
 「目に見えない世界」の一つが神や仏である。それと同等の意味で、邪鬼や妖怪、天使や悪魔が存在することも、私の世界のどこかに組み込まれている。私は神道の信者ではない。子どものころから耳にしたお経から我が家の宗派が浄土真宗であることは知っているが、仏教徒ではない。どこかに所属するように自らの宗教を表明するとしたら、無神論者というのが、たぶんいちばん近い。だが、神や仏を、私の世界に位置づけていないわけではないから、自然の偉大な力には畏怖を感じ、畏敬の念を忘れたことはない。そういう妙な無神論者だ。
 
 その私が、この歳になるにつれて感じていることは、日本の民間伝承における神というのは生きている間の暮らしを支えてくれる摩訶不思議な自然力を別様に表現したことである。むかしは、座敷にも竈にも井戸にも神様がいて、それぞれに感謝を捧げる作法が暮らしの中にあった。便所にも神様がいる、きれいにつかわにゃいかんよと教えられた。春になると山から神が田や畑に降りてくるとも聞いた。耳にした神様はいずれも、現実生活の援けをしてくれる存在であった。もちろんその中には、幸運ということも含まれる。御先祖を祀る氏神様もそうであろうが、人智を超える出来事に遭遇した時に頼りにし、感謝をささげる。まさに現世利益の信仰である。そのうち信仰心はなくなっても、我が家を支えてくれる女房殿をカミサンと呼んで、その御利益を享受している。
 
 仏教は今、葬式仏教と揶揄される。死んだときにしかお世話にならない、堕落したとされる。だが少し考えてみると、それは揶揄すべきことではない。仏というのは魂の在り様にかかわる作法の表現である。もう少し踏み込んでいえば、魂の在り様とその継承に関する問題に特化した哲学である。だから、まさに(私の関わる人が死んで)魂となってから(生きている私が)お世話になる宗教なのだ。葬式仏教で(も)いいのだ。仏教の現世利益というのは、生きている間の魂の平安を手に入れ受け継いでいくことにほかならない。もし生きている間のことを想定したいのであれば、現役の仕事を引退し、余生を送るようになってからの年寄りの役割、あとへつづく世代への魂の受け継ぎをこそ、思案するべきであろう。死ぬ前に仏になる。それが年寄りの役割なのである。
 
 このように考えてくると、神仏習合は、少しもおかしい出来事ではない。何でもかでも日本の習俗に取り込んで換骨奪胎してしまうと、謗るように言う方がいる。たとえそうであっても、上記の神仏のすみわけは見事だと言わねばならない。いや実際には、そのようなすみわけをしている原始宗教はいくつもある。私はオーストラリアのアボリジニーの習俗に、それと同じ「役割分担」をみている。神か仏かという選択は、したがって、ほとんど無意味である。戦後71年もしてからそのようなことに気づいている自分のお粗末さは、伏して詫びるほかないが、思えば、そのような魂の平安と継承ということさえも、遠い昔の話のように聞こえるご時世になった。
 
 世の中が変わったからに違いないが、そう変えた片棒を担いだのが私たち自身だということも、また間違いない事実である。せめて罪滅ぼしというと、お前さんそれほど(世の中に及ぼす)力はないよと、外野から声が飛んできそうだが、「私たち」と自称していることからすると、せめてそれくらい大きく構えても許してもらえるであろう。
 
 さあさあ、魂の話をしよう。
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