mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

己の迂闊さを恥じないのか?

2020-09-19 09:20:33 | 日記

  ジャパンライフの元会長が逮捕されたと、メディアがはしゃいでいる。「マルチまがい商法」名づけているが、典型的と言ってもいいような詐欺容疑である。債権者7千人、2千億円の負債。一人あたりで割るわけにはいかないが、でも一人あたり3千万円か。なんだ、たっぷり資産を持っていた人たちではないか。メディアは、出資した人たちを「被害者」と呼んで、インタビューしている。自分のあちらこちらに預けていた蓄えを下ろして、1億円全部つぎ込んだという方もいた。気の毒にと思うが、半分は身から出た錆だと、私は思っている。
 むろん詐欺は詐欺。それを正当化する理由は何もない。だが、「被害者」というのは、詐欺の片棒を担いだということでもある。昔から「谿壑(けいがく)の欲」というではないか。欲は深い渓よりも深くとどめがないと知っていたから、庶民はさまざまな警句を築き上げてきた。
 18世紀半ばの「世話詞渡世雀」でも「人をだますにあらねども、皆欲故にだまされる」と語り物の定番にある。労せずして儲けようなどとうまい話に乗ったりしてだまされるのは、古来人の世の習いのようによくあること。たとえ迂闊とは言え、「世の中に、そんなにうまい話はないよ」とちょっとでも思っていれば、全部つぎ込んですってんてんになるような無様なことにはならない。むろんだますのが悪いことはいうまでもないが、それが詐欺だとわかっても、欲に駆られてお恥ずかしい、ま、ちょっとした勉強をさせてもらったわいと、言葉は己自身に向いたものだ。

 「欲多ければ身を傷(そこな)い財多ければ身を煩わす」

 と、金のない庶民はそうやって、金持ちたちをうらやむことさえ慎んで、身持ちを良くしたものである。それがいまは、影を潜めている。
 江戸の庶民がそうしたのは、詐欺に出遭って騙されても損をこうむっても、お上が始末してくれるわけではないと知っていたから。首尾よく行っても、お上は詐欺師を処罰するだけと観念していたからである。当然、詐欺師がお上の権威を利用したり、世の(財のある人たちの)信用を借用したりするのは、よくある話。庶民の知恵というのは、欲を掻かないように自戒するばかりでなく、他人を見る目を養うことを軸としていた。それが江戸の世話物のネタになっていたと考えると、それなりに庶民教育の役割を果たしていたのだね。
 だが、そのヒトやコトが信用できるかどうかは、何処で判断するか。自分自身が、どのような権威を担いでいるか、どのような力を信じているか、つまり自分自身をどこまで見極めているかどうかが、分かれ目となる。そのような哲学的な視線が何処まで人々の身の裡に定着しているかどうかも、時代を読み取る目安にはなる。
 
 現代のように社会が整い、隅から隅まで国家・社会がシステムを整えて私たちの暮らし方をサポートしてくれる(とみえる)から、ついつい、政府中枢の人たちに寄せる信頼も高くなり、権威主義的なブランドに判断力を失ってしまうというのは、わからないでもない。
 しかし、政府中枢の人たち(ことに政治家)も、そのような判断をする余裕もなく、政治資金を提供してくれる人や団体に身を寄せる。例の新設私立小学校名誉校長に名を貸した首相夫人もつねづね友人に「わたしを利用できるのなら、どんどん利用してください」と公言していたではないか。自分の利用価値を自覚していただけでも、この方はたいしたものだと言わねばならない。世の中の人たちの「信用」を見極める動体視力がいい。それが9億円の国家財産を値引きすることに繋がるとは思いもよらなかったであろうから、コトが判明するや否や全部なかったことにするという失態を演じて、知らぬ顔の半兵衛を決め込んだのは、つい先ごろの話である。引き際の始末を周りに押し付ける身のこなしも、一級品と言わねばならない。
 
 モンダイは、私たち自身のなかに、自分を見つめる哲学的視線が組み込まれているかどうかだ。社会システムが揺るがぬ堅固さをもつと日々感じることによって、じつは私たち自身の内部に向かう内省的な視線が消えていっているのではないか。敗戦と貧窮の時代に自己形成するときを過ごしてきた私たちは、苦労しないでお金をもうけることに後ろめたさを感じる。だから預貯金の「投資話」にもすぐには応じない。ケチと思えるほど、慎重でもある。だが時代はバブルを経験して、儲け話が身の回りに溢れる時代になった。預貯金をただただ持っているのはバカだと言われるようになった。大枚を預けているだけで、それが何倍にもなって返ってくるという資本家社会の神話を、その通りに宣伝するコマーシャルは引きも切らず流れている。それに引きずられる人の気持ちも、わからぬでもない。
 でも、でもやはり、己の迂闊さを恥じ、自らの身を通してモノゴトを見極める眼力を、そのような哲学的な視線を備えようではないか。高い授業料だったけど、この視線は一生もんだからね。

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