mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

持続可能な岩盤と価値観の転換

2017-07-10 10:28:58 | 日記
 
 古守宿一作が暮らしの岩盤であると、AIによるシンギュラリティとの対比で記した(7/9)。もう一歩踏み込んで岩盤の持続可能性について考えてみる。そこには、大きな価値観の転換が前提になっている。この宿の料金が一泊15000円だと紹介した。通常なら、大人の旅の宿泊料金としてはまあまあの価格帯と言ってよかろう。むろんホテルや旅館の食膳には、お腹いっぱいになる凝った料理が並ぶ。バイキング式であっても、なかなか手の込んだ調理が施されていると感じられる品々が並んでいて、ついつい食べ過ぎてしまうほどだ。
 
 ところが古守宿一作の料理は、この畑で獲れた野菜、この田んぼで収穫されたコシヒカリというふうに、まさに地産地消の「一作」である。調理も昔風の「和食」。一汁一菜という時代の面影が感じられる漬物や煮物だし、昔の家庭料理と言ってもよいほどの感触が色濃い。今の若い人であったら、これで15000円かよと思うに違いない。つまり、目の前に広がる田畑でつくられ、つい先ほど収穫されて調理が施され、いま食卓に並んでいるというご亭主の(日頃の丹念な畑仕事と)もてなしに価値を見出さないのであれば、なんとも味気ない思いを持つかもしれない。つまりここに泊まった私は、体に刻まれたアイデンティティが頷くように、古守宿一作を保つために払っているご亭主の暮らしに共感するものが身の裡に湧き起り、忘れている暮らしの岩盤に思い当たったのであった。このような暮らしをしているご亭主のありようは、私たちの日々の暮らしのバックアップとしてどこかで行われていることであり、このバックアップなしでは私たちの暮らしが成り立たない(だからご亭主一家にはこの先もきちんと生きのびてもらいたい)と、私の身のうちの何かが反応したのである。
 
 外国人がやってくるという。彼らは、私の抱くアイデンティティという感触を、エスニックな「ニッポン」として味わっているのであろう。いまは交換の時代。ありとあらゆることが商取引として、等価交換として交わされているから、岩盤の暮らしが交換過程に乗らないことには持続可能とはいえない。急速に進むグローバル化の波に翻弄されて、商品取引が何処から来て何処へ行くのかわからない流通過程の流れに乗せられている。いうまでもなく毎日でも、おいしいものはいかようにも味わえる暮らしのただなかにいる。それは同時に、ブラックボックスの生産と流通と調理過程を経て、眼前に提供される時代なのだ。だからこそ逆に、何処で生産されどう消費されるかが目に見える、身元のはっきりしている地産地消の「郷土料理=和食」が際立つ。古守宿一作は、その隙間に(たぶん)このご亭主一家が暮らしを紡いでいくことのできる「採算ライン」を目分量で見積もって、この宿泊料金の設定をしているのであろう。
 
 私たちの日頃の暮らしがすでに、毎日がお祭りというような「関係への依存」に充たされている。私たちの暮らしはじつは、坦々とした日々の仕事とそこから得る収入とに支えられて、食料品を購入し、自ら調理し、食している。だが、その大半は加工食品となり、味噌や醤油、みりんや料理酒、調味料などもパック詰めされた乾燥調味料をつかっている。いやそればかりではない。野菜にしても肉にしても、店頭に並んでいる品々は、ほんとうにきれいに整えられ、そのままですぐ調理に取りかかれる。私たちの暮らしのバックアップが商品価値を高めるように設えられ、私たちもすっかりそれに馴染んで「快適な」暮らしを堪能している。店頭に並ぶまでの間に、どれほどの「手」が入り、商品検査と不合格品の排除がなされて、岩盤が人手によってしつらえられているか、忘れてしまっているのである。
 
 だが、古守宿一作はそうではない。帰るときに「土産」としてご亭主がたくさんの野菜を用意してくれた。「和食には使わないからつくることはねえんだが、お客さんが喜ぶから」といって出された大量のバジルは、はてどうやって料理したらいいんだろうかと、しばらく帰る車中の話題になった。頂戴した大葉も市販の分量の何倍もあった。ウリもキュウリも市販の三倍ほども大きく、表面にはごつごつと瘤が出ている。キャベツは虫食いだらけ。ポリエチレンの袋を覗いて「虫がいるよ」と騒いだりしていた。とっくに暮らしの岩盤を忘れてしまった人たちにとっては、「悲惨な」事態と思われる。はたしてこの、感覚のギャップを跳び越えることができるであろうか。
 
 エスニックという感触の味わい方は、異質であることを愉しむ味わい方である。日常に戻れるという安心感が担保されている。ここでいう「日常」とは市場経済の「快適」にどっぷりと浸っているお気楽である。だが、岩盤そのものに従事している人たちは表層から忘れられ、恐らくレイ・カーツワイルに眼中にも入っていない。2045年にシンギュラリティを迎える前の2023年ころに、AIが人の知能を超えると彼は予想している(むろん超えるといっても、人とAIが敵対的に位置するとは見てないから、とても楽観的なのだが)。彼は、すべての人が創造的な活動に特化すると楽観的なのだが、私には、そうは思えない。多くの人は岩盤の「悲惨な」仕事に追いやられ、それらをブラックボックス化して市場経済に乗れるエリートの人たちだけが「お気楽」にAI時代を送れるのではないか。
 
 何年前去年ではなかったか、「将来何になりたいか?」と聞かれたAIが「神になりたい」と応えたという出来事があった。「神」とは「自然」である。いいことも悪いことも、傍若無人にふるまう神に平伏することによって、私たちの人間の暮らしは出立した。私たちはそう考えたが、欧米の人たちは自然を好きなように使ってよいと「神」からご託宣を得た。その大きなずれがそのまま、2045年に、露骨に表面化しようとしている。今度は、AIに君臨する一部の優れた人と、岩盤の仕事に従事する人とに階級が分化するのであろうか。

コメントを投稿