mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

5W1H (1)  世界は「かんけい」の「物語り」

2016-11-19 10:42:11 | 日記
 
 中学生の時、出来事を記録する文章を書く際の心得として「5W1H」ということを教わった。それは世界の見方でもあったのだが、受け止めた方としては「5W1H」が四百字詰め原稿用紙の平面にずらずらと並ぶだけの「要件」にすぎなかった。だがそれから60年経ってみると、「5W1H」は、少し入り組んだ立体構造をなしている。
 
 まず、who、when、whereは、一つになって「主体」をかたちづくる。whoが主体というのはデカルトの「我あり」の「我」に相当するから誰にでもわかるのだが、物事を客観的に見るというとき、しばしば、whoが抜け落ちる。客観的というのを、「誰が見ても同じように見えること」と誤解するから、まるで神が見たような視点を想定してしまって、記述する方はwhoを落としてしまう。読み取る方が、ついついwhoに頓着しないのは、日本語の主語を抜いてしまう癖なのかどうかは、わからない。だが、今振り返ると、読み取る方も「客観的出来事」とみる見方に囚われているから、神のような視座を身につけてしまっているのかもしれない。言葉にしないというのは、それ(=主体)がすっかり前提になって(失念して)いるか、それを超越する視点に立っているか、どちらかである。
 
 しかも「我あり」というとき、すでにそこには、whenとwhereが組み込まれている。これも「誰が見ても同じ」という客観性にすでに組み込まれていることだが、じつは科学的な実験にしても、「条件」が制約として存在する。重力実験のときの真空であるとか、摩擦抵抗がないとするなどがそうだ。つまり、「我思う……」とき、かならずwhen、whereを(あわせて)想起しなければならないのだが、語る方は(いつでも自分)と思っているから陳述することを省略するし、聞く方もつい放念してしまう。語り手は、この場に固有のことと思っていても、我が身を置いている時と処であるから、つい前提にして陳述を省略してしまう。聞く方は、(その出来事を)一般的なこと、あるいは普遍的なことと思って受け止めるから、語り部の「省略」を違和感なく受け止める。どうしてそのように受け止めるか。我がこととして(生起した出来事の情報を)受け止めるというのは、共感性や共時性や共空間性を媒介として、(受け止める人の持っている一般化や普遍化のスクリーンを通過させている。逆にそれを通過させていない場合は、他人事として面白いと興味関心を寄せているだけだから、かえって、省略されているwhenやwhereで、whoがそう言っているのかが限定されていて、出来事の受け止め方が精確になる可能性がある。皮肉なことだ。
 
 「5W」のうちの「3W」が「主体」をかたちづくるが、それはほかの「2W1H」の土台であり、かつ結果になっている。こうも言えようか。私たちは「3W」の舟に乗って波間に浮かんで、世界に出逢っている。「主体」というのは、波間に浮かぶ小舟のようなものだ。単独ではあるが自力で存在しているわけではない。そこで出会うwhatが「出来事」である。だが人は誰でも、生起した出来事whatを「それ自体」として認識してはいない。
 最近、84歳の運転する軽トラックが歩道に突っ込んできて7歳の子がなくなる事故が起こったが、それにしても「事故があった」という報道だけで終わってはいない。なぜ早朝、軽トラは歩道に乗り上げてぶつかったのかを追跡していくと、前夜軽トラは家を出て一晩中高速道路などをさまよい走っていた。途中で給油もしている。つまり(認知症になり)帰る(行く?)べきところがわからなくなり、ぼろぼろに疲れて、ついに朝の小学生の登校時間に、歩道に乗り上げたと報道はつづいている。犠牲になった子どもの父親も(TVのインタビューに)、「年寄りを厳しく罰してほしいとは思いません。それより二度とこういう事故が起こらないようにしていただきたい」と次元の違うところで応答している。whatは、whyとhowとをともなってはじめて「(複数の)3Wの物語り」として受け止められるのだ。
 
 当然のように、「3W」が誰のwhoであり、そのwhenからwhereを視野に入れるかによって、「物語り」は変わってくる。犠牲になった小学生のwhoからみると、断ち切られた人生、送り出した家庭、集団登校の列、通学路の安全、登校時間帯の偶然ということごとが、幸いにも事故を免れた子どもの人生とその家庭も含めて、「かんけい」の「物語り」として浮かび上がる。つまり、「(複数の)3W」の小舟がさまざまな「2W1H」を乗せ、あるいは他の「2W1H」と遭遇して「かんけい」を紡ぎながら世界をかたちづくっているのである。
 
 メディアの報道は、その出来事のどの「物語り」が最も視聴率を稼げるかに重点を置いて企画され報道されるのかもしれないが、同時に取材記者と番組制作者の(聴視者を鏡にして写した)世界が陳述されている。とりあげる出来事によっては、howもwhyも大きく変わってくる。殺人事件のような場合は、殺人の動機がwhyになろうし、howがテーマになるのは、もっぱらミステリの領域だ。あるいは、企業の企画や都政の財政政策などは、howを主題にして社会戦略を考える必要に迫られる。そのときwhyは、人それぞれが持っている「動機」や「インセンティヴ」であったり、社会的に受け容れられる「合理性」であったり「正当性/正統性」であったりする。それらいくつもの次元の異なる要素が集約された「かんけい」の結果が相乗し堆積して出現する。
 
 「5W1H」は、もう四百字詰め原稿用紙に並んでいる要素ではなくなる。立体的に構成され、相互に関わり合ってつくりあげられている「世界」そのものだ。それは同時に、語り部の内面世界そのものでもある。
 
 では、内面世界においてwhyとは何だろう。何かアクションを起こすとき、「そうしたいから(そう)した」という衝迫以外の説明がつけようがないことがある。私たちのたいていのアクションがそうだが(とくに純化して言えば、芸術活動などがそうだが)、whyはしばしば、感性の然らしむる処(nature)を意味する。とすると、私たち自身の感性の拠って来る所以をも「1H」としては対象としなければならない。面白い。私たち自身の内面世界は、どのように構築され、どのように発露されているのか。
 
 早く目が覚めた今朝の寝床で、ふと、そんなことを思うともなく考えていた。
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