mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

私たちが失ったもの――永劫回帰、モンクあっか

2016-06-08 05:26:01 | 日記
 
 映画・カミラ・アンディニ監督『鏡は嘘をつかない』(インドネシア映画、2011年)を観た。スラウェシ島の東南部にあるワカトビ島に暮らす漂海民バジョ族の、漁に出て帰らぬ父を待つ少女と母との物語。サンゴ礁に張り出した高床式の水上家屋に暮らすこの人たちのたたずまいは、文字通り自然とともに生きる人間の営みの最も美しい姿を映し出す。父の帰りを待つ少女や少年に感じられるひたすらな純粋さは、澄み渡る海にもぐり、あるいは浮かんで海の色とひとつになっているかに見える。
 
 だが、少年や少女も、成長する。その心裡の揺れ動きが、自分の無力への慨嘆と周りへの反発と、帰らぬ父への思慕としてかたちを求める。父からもらった「鏡」がその役を果たす。バジョ族の占い師は鏡が父の姿を映すという。少女は何度も覗き込むが自分の姿しか映っていない。その自分の姿が父であると映画を観ている私にはみてとれるが、少女には鏡が割れるまで気付くことがない。そういう象徴的な意味合いが「鏡」に込められ、「嘘をつかない」というタイトルの述語に受け継がれる。少女にとっては、外の世界に反発する己自身の内部から変化が訪れ、嫌った外の大人の世界へ気づかぬうちに己の心が踏み入れていることに、あるとき気付かされる。
 
 どこの世界にも、同じように自らを発見し大人になっていく子どもたちがいると、微笑ましく思う。いつか自分も通って来た道であるが、すでに失われてしまった「世界」である。
 
 もうひとつ別の見方もできる。海と一体になったバジョ族の暮らしに、この少女と少年は融け込むようにサンゴ礁の海に浮かぶ。水底の見える澄明な海に、四肢を伸ばしてぽっかりと浮かぶ二人をカメラは俯瞰して、それがワカトビ島の一角であることを示す。これも、私たちには、母親の胎内に戻ったような安心感を与える。ニーチェならば、「永劫回帰、それでいいのか」と叫び声をあげそうであるが、それでいいのだ、何かモンクあっかと二人なら応えそうだ。そういう感性の「世界」も、私たちは失ってしまった。
 
 行き帰りに読んでいた本を、ちょうど読み終わった。西加奈子『まく子』(福音館書店、2016年)。どうしてこの本を図書館に予約したのかは忘れてしまったが、届いたので読んだ次第。でもヘンなタイトルと思った。この作者を土橋菜穂子と間違えていたことも(教えられて)わかったが、まあ、目を通してからと思って読んだ。これが、今日観た映画と同じ主題を扱っている。「まく子」はしかし、「かんけい」をまき散らす。作者の意図がストレートに提示される。それが実を結ぶために、非現実的な設えをしなければならなかった。
 
 読み終わって知ったのだが、西加奈子という作家は、昨年直木賞を受賞している。ひょっとするこの「まく子」は受賞後第一作かもしれない。絵本、童話作家でもある。その面目躍如という出来栄えになっている。「まく子」登場する少年と少女は、私たちが思春期への通過儀礼を失うのといっしょに見失った魂の在処を、ナイーブに指し示している。バジョ族の少女と少年のように。
 
 いまさら取り戻せない、私たち自身の鎮魂歌なのかもしれない。あとに続く世代の子や孫は、果たして魂を、どう受け止めるでしょうか。

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