mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「人間の尊厳」の重み

2016-12-21 10:38:36 | 日記

 フェルディナント・フォン・シーラッハ『テロ』(酒寄進一訳、東京創元社、2016年)を読む。山への往き帰りの電車の中で全部読み終わった。シナリオ仕立ての重い話である。場所はドイツの裁判所。事件は、ハイジャックされた民間航空機を空軍パイロットが撃墜した。そのパイロットの有罪無罪を問う裁判である。

 ドイツの裁判は「参審制」、日本の裁判員裁判のように市民が裁決に参加する。ただ、「参審員は事件ごとに選出されるのではなく、任期制になっている」「犯罪事実の認定や量刑の決定の他、法律問題の判断も行う」と、日本語訳出版社の注記がある。この「注記」の(日本との違いの)重みが、読み終わった後にずっしりと心裡に響く。

 大雑把に言えば三幕もの。第一幕は、事実認定と争われる「環境」の様子が浮かび上がる。何しろドイツでは、2001年の「9・11」を受けて、民間航空機が乗っ取られ「武器」として使用されようとしているときには軍が(その民間機を)撃墜してよいとする法律ができた。その法律が2006年に最高裁で「違憲」判決を受け、無効となっている。2013年、ルフトハンザ機がハイジャックされたと、機長から報告が入る。ハイジャック犯はサッカーの試合が行われている7万人収容のスタジアムを目指している。出動命令を受けた空軍機が、民間機に接近してコックピットの様子を視認。航空機に対して警告をし、威嚇射撃をし、着陸するように命令するが、機からは何の応答もない。撃墜を許可するかと求める空軍司令に対して、航空大臣は許可を出さない。むろん空軍司令も許可を出さない。あと数分でスタジアムというところで、パイロットが空対空ミサイルを発射してルフトハンザ機を撃墜した。パイロットは事実関係で争わない。検察官と弁護人と裁判官と何人かの証人が登場し、パイロットも交えてやりとりが交わされる。

 第二幕は、検察官の「論告」、弁護士の「最終弁論」。それぞれの論理を展開する。それはまるで哲学論争のようにも読み取れる。第三幕は「判決」。なんとここが二章に分かれ、「有罪」と「無罪」の、二通りの評決が開示される。これもまた、哲学的に読み取れるが、シーラッハは読者が参審員としてどう評決するかに委ねたと思われる。

 読み終わった後に、もう一章が設けられている。
「是非ともつづけよう」と題されているこの章は、日本語出版社の注記に寄れば、「本稿は、2015年に雑誌〈シャルリー・エブド〉に対してM100サンスーシ・メディア賞授与された際の、授賞式における著者の記念スピーチです(編集部)」だそうだ。私は、シャルリー・エブドが攻撃を受けたときの、あとのパリの街頭デモに際して、2015/1/14のブログ欄で「370万人のデモを風刺してこそ、シャルリー・エブドの再出発にふさわしい」と対岸の火事に言葉を挟んだ。その因縁もあるから、大変興味を持って読んだ。「メディア賞を授与する」というセンスは、真っ向から私のコメントを嗤うものに思えたからだ。

 だが、ルフトハンザ機撃墜事件の裁判の後に、このシーラッハのスピーチを読むと、つくづく「人間の尊厳」に関する裾野の広さが違うのだと、感じさせられる。それは、言葉を挟む次元と視界のちがいを照らし出す。ドイツ市民の共同体がつくる規範の根っこに、ごくごく普通にカント(の論理)が居座っていたりするのは、思えば当たり前のことではあるが、日本にはそういう「伝統」というか蓄積がないなあと思う。ドイツが良いとか日本が悪いとかいうことではなく、それだけの蓄積の上に言葉が交わされる社会の「知的力量」の差が感じられて、重いのであった。

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