mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

The long goodbye――そればかりは、わからない。

2016-04-15 08:29:03 | 日記
 
 中島京子『長いお別れ』(文藝春秋、2015年)を読む。同じ作家の『小さいおうち』を読んだのは2010年10月。その前月に亡くなった義母の「引き合わせかと思った」として、次のように書いている。
 
《『小さいおうち』をベタに読みはじめたとき、登場人物の年齢が眼に入った。主人公は大正5年、亡くなった義母と生年が同じだ。舞台は昭和5年ころからの東京。義母はずうっと檮原の田舎で過ごしたから見ている風景はまったく別物だろうが、時代の空気は何年遅れかで諄々と伝わってきたに違いない。私の母も7年早い生まれの高松育ちだから、ひょっとすると東京と同じ文化を少し遅れて享受していたと考えることもできる。むろん登場人物と階層が違うから、同じ文化といっても、隔たりはある。だが、子どもをいい学校に入れて教育を施そうとしたり、ソフトクリームやカレーライスの新奇な食べ物を歓迎したり、百貨店から持ってくる着物生地を選んだりする若奥様を田舎出の女中の目で見る視線は、母の生い立ちと重なっていてもおかしくない。/昭和5年から昭和21年までの東京の景色は、産業社会で興隆し戦争で破滅していく日本の姿を描きとどめていて、これまで、縫い合わせ目がつながらないパッチワークのように感じられていた跛行的な日本社会の絵柄が、ふと縫い合わされているような気がした。その景色の感触がひたひたと伝わるのは、女中さんの視線がよく抑えられていて、それが私の母の時代の感性として響いてくるからであろう。》
 
 つまり、義母や実母の生きてきた時代を読み取るような視線で、ベタに読んでいる。今度の『長いお別れ』は、私の年代の行く末を、私たちの子どもの視線で見ているような気分で読みすすめた。 「ロング・グッドバイ」というのは、「認知症」のこと。同じタイトルの村上春樹の訳したレイモンド・チャンドラーの探偵小説とは、もちろん全く異なるお話し。父親が認知症になり、それが10年ほどをかけて緩やかに進行する。壊れていく父親と介護する母親と3人の娘のかかわりが、それぞれの暮らしと重なって浮かび上がる。中島京子は、これらの展開をベタに読ませる書き方をする。語り手の視点がときどき移り変わりながら(縫い目の見えないパッチワークのように)コトを描きとるからであろうか。一般化させない。
 
 ひとつ気にかかることが、こころに残る。認知症の父親を(周りの人たちの視線に抗して)妻がこうみてとる述懐がある。
 
 《……言葉は失われた。記憶も。知性の大部分も。けれど、長い結婚生活の中で二人の間に常に、ある時は強く、ある時はさほど強くもなかったかもしれないけれども、たしかに存在した何かと同じものでもって、夫は妻とコミュニケーションを保っているのだ。……この人が何かを忘れてしまったからといって、この人以外の何者かに変わってしまったわけではない。/ええ、夫はわたしのことを忘れてしまいましたとも。で、それが何か?》
 
 そうなのだ。このような「かんけい」の手触りこそが、私たちの〈こころ〉の証なのだ。瞬時に湧き上がるその感触こそが私たちが生きているすべての意味だ。そう私は感じとった。さて、私の連れ合いが同じように感じとってくれるかどうか。そればかりは、わからない。
コメント   この記事についてブログを書く
« 男と女――心の底が根腐れを起... | トップ | 巨大災害の時代に列島は突入した »

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事