mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

社会に受け容れられないのは、誰か?

2020-08-03 13:55:24 | 日記

 コロナウィルスの感染者の拡大が止まらない。ずうっとゼロを続けてきた岩手県にも感染者が出た。ところが、感染者の所属する企業がその事実を公表したところ、非難が殺到しているという。どうしてなのか?
 以前にも「村八分」と題して記したが、岡山県のある小さな工業都市に戻って来た京都の大学卒業生が感染していたことが報道された。すると、その人物を特定するとともに、その学生の実家は周囲からのさまざまな非難を浴びることとなって、ついに引っ越していかざるを得なくなったというのである。そのことを話してくれた友人は「そりゃあ東京とは違うんよ。皆、誰がどこで何をしよるかってすぐわかるし、関心も強いからね」と、付け加えた。だがそれはなぜなのだろうか。
 
 正体がわからないコロナウィルスの感染の広まりを警戒するとしたら、感染者がどこで生じているか、それは何処からやって来たか、何処へ向かっているかを掌握することは、最大の関心事である。自らの防衛をするにあたって、感染源とその広まり方を知ることは、最も合理的な判断だと私は思う。それが通用しない。あたかも感染者が「悪い」と忌避される。もちろん同情されなくたっていい。近寄らないでと言われるのも仕方がない。だが、「攻撃」することはないじゃないか。
 感染者の振る舞いを不道徳として非難したくなる気分は、わからないでもない。コロナウィルス感染源が「夜の町」であるとか「飲み会」であるとか、3月の頃は、卒業旅行だからと言ってヨーロッパへ行くのは、行く方が悪いという気分が、メディアで伝えられ、あたかも犯人捜しのように報道されていたからだ。だがコロナウィルス感染が広がってみると、道徳的な暮らしをしているかどうかがモンダイなのではないと、すぐにわかる。3月に騒いでいたパチンコ屋が感染クラスターになったという話を聞かないではないか。さいたまアリーナの格闘技の興業も、その後の感染の話は出てこない。冷静に考えてみると、通勤の公共交通機関の方がパチンコ屋よりも格闘技のエンタメよりも、恐れられて当然と思うが、それに対する調査結果も報道も、一切為されない。
 つまり、日ごろの自らの裡に鬱積する憤懣を誰かにぶつけたいから、たまたま皆さんの注目が集まる「感染者」がターゲットに選ばれただけのような感じがする。
 
 東京は他人のことを構わないからいいだろうが・・・というのは、どうだろう。
「都市の空気は自由にする」とこなれない日本語を、昔、高校の世界史で教わった。それは、封建支配から自立しはじめた「自治都市」が、周囲の農村部からみると駆け込み寺のような役割を果たして、「都市に逃げ込むと自由になれる」という意味であった。「気随気ままに暮らす、隣の人に無関心な町」という意味ではなかった。時代的にいうならば、封建支配というルーティンのカウンターパートとして「都市」は「自由」を象徴したのであった。
 それが、他人のことには無関心という意味合いの自由に変わったのは、都市が特異な象徴を意味する役割を終え、時代の文化を牽引するメインカルチャーにのし上がったからである。私なども田舎町から東京に出てきた当座は「放っといてくれる自由」を満喫した。いまでもそうだ。余計なことに気遣わなくて済む。評判が悪くなることを気にしなければ、周りがどう思っているかにさえ気遣わなくていいのは、近代市民社会の市民の特権のようにも思える。
 もちろんこうも言える。「放っておいてくれる自由」が、はた迷惑な振る舞いも放っておいてくれるわけではない。しかし、ご当人が用心していたにしてもコロナウィルスに感染するのは、起こりうること。本人の不用心を非難するのならわからなくはないが、それならそれで、その点を取り上げてしてきすればいいことだ。岩手の場合、そうではなさそうだ。感染者を出した(と発表した)ことが非難の対象になっている。
 
 にもかかわらず、「感染者」を非難・攻撃しないではいられないのは、自分自身が社会に受け容れられていないという鬱屈が溜まっているからではないか。アメリカのBMLが商品の略奪になったりすると同じで、社会的な不遇が極まりつつあるような気がする。
 では、それが都市ではさほどのモンダイにはならないのに、地方の小都市では村八分的なコトになってしまうのは、どうしてか。都市では「社会的な不遇」が機能的に考えられ、システマティックに処理されている。多様な文化と出自を持つ多人数を抱える都市では、機能的な始末の仕方がつくられていないと、しょっちゅうもめごとが起きることになる。だから自ずと、長年の都市空間の経営が機能的文化を蓄積していく。
 それに対して地方小都市では、たぶん人と人とのかかわりの濃密さが保たれている分だけ、コトの始末の仕方が定着しておらず、「放っておけないモンダイ」なるのかもしれない。機能的な始末のパターン化が進んでいる大都市ではコトのもつ人臭さが薄められるのに太子て、地方小都市では極まってしまうとはいえまいか。
 さらにもう少しいくつかの要素を加えて考えなければならないような気がするが、岩手の問題を耳にすると、避けて通れない大きな問題を含んでいると感じている。

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