mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

36会 seminar報告(2)鋳物のつくり方と使用目的

2021-07-26 05:29:34 | 日記

 銅と鉄の鋳物は、正確にはわからないが、ほぼ同時に入ってきたとイセキさんの話は続く。当時は鋳物師(いもじ)と呼ばれ、法隆寺の薬師如来像など、銅の仏像であった。梵鐘もつくられ、京都妙心寺の梵鐘は、比叡山から引きずってもっていったと言われているが、それで割れてしまうようなものではなかったそうだ。日本の梵鐘の銅の鋳造は、スズが10%程度の配合で粘りのあるのが特徴、低い音が出る。ヨーロッパの教会堂の鐘は粘りがなく高い音が出る。そういう違いがどのように生み出されて定着していったのか興味はあるが、銅よりも手に入りやすい鉄の鋳物は、仏具としての燭台や仏壇などの細かい細工などにおいて発展していったと考えられる。銅の鋳物は、生活用具というよりは、宗教的な用途に向けたり、建築の装飾に用いられていったのではなかろうか。
 イセキさんは鉄や銅の大型の鋳物を作るときの構造図をスクリーンに見せる。高い温度を必要とするその装置には、熱源の薪の他、大量の風を送る鞴(ふいご)が備えられ、10人がかりで足踏み式の踏鞴(たたら)が用いられた。スタジオジブリの「もののけ姫」に表現された踏鞴が、見事によくそれを表していると、後でその一場面を動画で見せてくれた。10人ほどの人が頭上の綱を手でつかんで体のバランスを取りながら、片足を床に、もう一つの足を踏鞴にかけて、体重を載せて「踏鞴を踏む」。
「踏鞴(たたら)を踏む」って昔から、悪いことのようにいうが、(もとはといえば)そういうことじゃないよねと、イセキさんは疑問を呈す。後の会食のときにその話題が再び出て、スマホではこう書いてあるよとイセキさんに見せて談義を沸かしていた。
 日本国語大辞典をひくと、「いもじのところ、男ども集まり、たたらふみ、物のこ形鋳(かたい)などす」と第一義を記したあとに、「②勢いよく突いたり打ったりした的(まと)がはずれ、力があまって、から足を踏む」とある。踏鞴を踏む作業は、この語義②のように、時々踏み外してとんでもない目にあっていたのかもしれない。「もののけ姫の動画も、女たちであったが、汗びっしょりになって懸命な様子がよく描かれていた。この後者が世に残り、鞴や踏鞴が姿を消していったのであろう。
 熱源としての薪ということになると、山が禿山になるとイセキさんは言う。玉野に子ども時代を過ごした私たちには共通のイメージが湧く。日々精錬所の煙がもたらした禿山だ。
 イセキさんは続ける。鉄を溶かすというモデルは島根にある。ルーツは朝鮮のはずだが、朝鮮の文献に踏鞴の記述はない。イセキさんのイメージは、家族総出で紐にぶらさがり踏鞴を踏む姿。そういうイメージが、我が祖先の姿を思い起こすのにふさわしい。西欧では水車で羽を回して風を送るようにしていたらしい。よほど風が強いと見える。
 単純化した図では、地上に溶解する銅や鉄を投入する装置が置かれ、鞴や踏鞴(たたら)や溶けた金属を受ける作業は地下で行われている。重いものを高所に持ち上げるよりは、地下に落とす知恵を使ったのであろう。その分、踏鞴の作業場は閉ざされた地下。暑さで並行している様子が、「もののけ姫」の動画には、うまく描かれていた。
 イセキさんは、鋳物の象徴として奈良の大仏産を取り上げる。どうやってつくったのか。
 図示をしてイメージが出来上がる。下から順に、八層に分けて順々に作り上げてゆく。型取りをして周りに土を盛り上げ、溶けた銅を流し込む。出来上がったらその上の層に型を作り土を盛り上げて溶けた銅を流し込むという具合に8回繰り返す。頭が出来上がったら、今度は土を堀崩して取り払う。その後に、大仏殿の社殿を建てたってことか。でもその当時には、地下の作業所ではなくなっていたのだろうな。それは、考えただけで面白い制作作業だと思った。鎌倉の大仏は・・・と言葉を添えてイセキさんはいう。立っているものを作りたかったが、バランスや強度を考えると、大仏の立像はつくれなくて坐像になった、と。それも面白い。

 鋳鉄と鋼の違いが説明にあった。そもそもその2つの材質がどう違うものか、完成品のイメージがわからない。鋼と聞けば、刃物を思い浮かべる。鋳鉄は、カーボンが21%超入っているもの、鋼は0.02%?21%までのものという定義が、業界筋にはあるらしい。カーボンが多く入っていると何が違うのか。
 調べてみると、鉄そのものと炭素を混ぜ合わせて、鉄の強度を増すらしい。カーボンが多ければ多いほど強度が強いのだが、強ければ折れやすいということもあるから、用途によって使い分けるようだ。調べていると、フライパンでは鋼の製品は靭性が強く薄く仕上がる。他方鋳鉄製は厚く重くなるという。今はいろいろな製品が求められているから、なるほどこうした違いはますます必要とされていると思われる。
 さてこうしてイセキさんの話は、現代社会が必要とする製品の市場における競争実情とその変転に移った。(つづく)