mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

「かんけい」の気色(3)薄い文化の着物

2021-04-04 08:38:02 | 日記

 この話題から、しばらく離れていました。さて本題に戻しましょう。
 この3月で退職する若い方の話しで気が付いたことは、時間と空間が移動速度によって変わるのが、ヒトのモノゴトの認識に深くかかわっているということ。つまり、早く移動するときに(移動主体の認識が)捨象するというか、抽象されてしまう空間の諸々のものに、気を止めてみると、ヒトビトがそれぞれ抱懐している「空間」と「時間」との相関的総合である「せかい」認識は、ずいぶんとズレたりかけ離れたりしてしまうに違いない。ことに、近代化して「移動速度」が速くなると、人びとはそれぞれ、違った世界をみていることになります。
 とすると、それらを総合して謂うところの、「科学的」とか「客観的」という「世界」とは何であろうか。逆にいうと、そういう違いがあるにもかかわらず、その違いを意に介さずに「せかい」について語り合っている人たちの、なんと無神経なことよと、我が越し方を振り返って、臍を噛む思いをしている。しかも実は、違った「せかい」をみせているのは、移動速度だけではない。視力の違いがある。マサイ族の視力は「5・0」とどこかで聞いたことがある。私たちは「1・5」を「ふつう」として、それ以下の視力で世界をみている。だが、「5・0」となると、8倍の双眼鏡でみているようなものなのだろうか。むろん動体視力も関係するであろう。
 その、視力の極めていい人たちがとらえている「せかい」を、現代社会に置き換えて言えば、いわば、「専門家の眼力」である。「オタクの目」といってもいい。あることに集中して心を傾けていると、その世界のことが「飛び込んでくるようになる」と言われる。野草に詳しい人たちは山道を歩いていて、こともなげに野草を見つける。鳥観の達者は、生い茂る樹木の葉蔭にいる鳥を、裸眼で探し、双眼鏡で確かめる。「どこどこ?」と、達者の双眼鏡が向いている方を傍らの私などが探しても、見つからない。
「達者の人たちがみているせかい」を、私たちも見ているように思うのは、「その人たち」を介在させて「みているせかい」なのだ。そこに「その人たち」に対する「信頼」が差し挟まれている。つまり私たちはその「信頼」の根拠が奈辺にあるのか(と自分の内心に問うて、そこ)に思いを致してはじめて、自分の抱懐する「せかい」に、少しばかりの客観性を付け加えることが出来る。客観的にみているのではない。言葉を換えていえば、「ふつうのひとたちのみているせかい」を(多数派と信じて)感じているにすぎない。「すぎない」とはいうが、もちろん、それはそれで大切なことである。「すぎない」というのは、自分の目で「みているわけではない」、「眼力のある人への信頼を介在させてみている」のだということ、もっと言葉を換えていえば、自分自身の視力ではみえないと知ることである。
 トランプがアメリカの大統領として登場したとき、旧来の知的ピラミッドの上層部にいた人たちは、「予想外の結果」に驚愕した。だが、庶民からすると、ホンネ剥き出しにして商売に専心する自己中心的な世界的リーダーの登場に「不安」を感じはしたが、既存の権威の表皮をはぎ取ったことが、アメリカの大衆的支持を得たのは、旧来の知的ピラミッドがもはや人間世界の「かんけい」の気色として、「信頼」に値しないとみなされたのだと、みてとった。では、トランプの言動が、旧来の知的ピラミッドに代わる「なにか」であったかというと、とんでもない。彼のホンネではあろうが、私たちの肌合いにはざらざらした感触しか感じられない、いやな代物であった。旧来の社会的市場経済のピラミッドの、旧来的な道徳性の表皮をはぎ取ったエッセンスに過ぎなかった。だから、いわば社会的に鬱屈した不満層の感情を動員し、敵をつくり、憤懣をぶちまけ、ヘイトクライムと暴力の行使を正当化して、わがままに#ミー・ファーストを叫ぶことにしかならなかった。
 トランプ登場に感じた「不安」とは、それまで人類が築いてきた「知的な力」とは、いったい何であったのかと、疑問を感じたことであった。トランプ治世の4年間に「学んだこと」は、彼が引っ掻き回した世界をふくめて、為政者の化けの皮がはがれたことであった。自由社会であれ専制社会であれ、統治が本質的にもっている政治の原的抑圧性であり、それは同時に、社会に不可欠の秩序が必要とするものでもあるということであった。薄皮とは言え、人類史的な「道徳」の表皮がそれなりにはたしている効用であり、それすら取り払ってしまうと、何が「人類史的共有物」と呼べる文化になるのかと、未だに感じているヒトとして纏っている「文化の着物」の正体である。
 ひとつだけ、確かな実感として感じているものが、ある。「文化の着物」の正体の本体は、この身体性である、ということ。それはしかし、「本体」というより「本態」と呼ぶのがふさわしいほど、「かんけい」的であり、移り変わり、しかし、身から身を通して、それが心の習慣をまといつつ受け継がれてきているという「事実」こそ、たしかな実感である。
 いまいちど、そのたしかさの実感から考え直して、人類史的な径庭を振り返ってみてはどうだろうと、トランプ後の世界が向かう先に(はかない)「期待」を寄せながら思っている。