mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

私が身を置くコミュニティ性とは何か?

2020-10-30 10:42:40 | 日記

 学生時代の後輩が、近況を知らせるメールに、要約以下のようなことを記していた。

(1)彼の家の敷地に設置されているカーブミラーが樹木によって見えずらいので伐採してほしいとご近所の方が市役所に申し入れ、市の職員が伐採を依頼しに来た。去年にも同様のことがあり、応じている。
(2)このカーブミラーは、彼の父親が「はるか昔に」行政からの依頼を受けて「好意で…場所を提供した」もので、その維持管理に責任を負ったものではない。
(3)ご近所の方が(直接)依頼するならまだしも、市役所を通じるというのなら、市役所として対処するべきではないのか。その結果(市役所が伐採したの)かどうかはわからないが、最近(家に)立ち寄ってみると、生け垣が無残にも切り払われていた。これも不快である。
(4)「カーブミラーがみずらくなっている」とご近所の方が、ほかのご近所の方へお話しし、話しを聞いた方がわが家へそれを伝えた。出逢ったとき、最初のご近所さんが「ありがとう」と見下したような挨拶をしたのも、何だか腑に落ちない。
(5)(今はそこに定住していないため)年に何回か訪れている程度なのと敷地内の改造を考えているので、カーブミラーの撤去をお願いすることになる。

 とまあ、こんな具合だ。
 実家を維持するかどうかは、後継ぎ世代としては大きなモンダイだが、東京に暮らしてきて、実家が田舎にあるような場合、この後輩のようなことに出くわすことになる。別荘のように使えばいいと都会暮らしは考えるかもしれない。
 しかし、地元の人にしてみると、公が設置したカーブミラーが、個人宅の樹木の生長で見えなくなるというのを「なんとかしてほしい」と要望するのも、無理からぬこと。当然、市役所に要請することになる。
 ふだんから顔見知りの親しいご近所ならば、家を訪ねて「依頼」することもできようが、それも個人宅の植栽が公の設置物を利用を邪魔しているとみているに違いない。まして、年に何回かの訪問者である人には(ご近所さんも)そうはできない。つまり、公を介在させた関係しか紡がれていない。それなのに伐採に応じてくれたので「ありがとう」とご挨拶をした。見下したわけではない。率直に感謝したのだが、「好意で場所を提供」していたのであれば、伐採は市役所の役割、そりゃあ申しわけないことをしたと、思っているかもしれない。
 ということは、市役所が(後輩の許諾を得て)費用負担をして伐採するということか、カーブミラーの撤去をしてもらうしか、穏やかな解決方法はない。日頃「関係がない」からだ。
 これは、個々住民の「関係構築」をイメージしないで、行政という公共的関係だけでコミュニティをかたちづくって来たツケが回ってきているのではないか。ご近所さんからすると、カーブミラーがまさか個人宅の「好意によって」維持されているとは思ってもいないであろう。むしろ、公共物のカーブミラーが私邸の植栽によって見ずらくなるというのは、植栽の持ち主が整備すべき負担とみるのは、当然である。
 つまり、「はるか昔」のコミュニティ性では、「好意によって提供」してもらうこともありうることであったし、そうであることをご近所も当然承知の「習い」だったにちがいない。市役所がその周知を図る必要もなかったのであろう。だが、世の中がすっかり一変した。人びとは(私たちも)須らく公共性が媒介して「関係を取り結」んでいると思っている。
 公共性以外に、個々の住民を結びつけるコミュニティ性はなくなっているのだ。それが都会暮らしの気軽さと、田舎育ちの私なども好感を持って、田舎を棄てた。そのツケが、今になって回ってきている。もちろん高度消費社会を経過したからに違いない。暮らしの多くを「商品交換」に廻すようになった。いわゆる生活インフラと呼ぶもの以外も、調理から住まいの掃除・洗濯まで、「外注」に出すことができる。家族も解体気味であるから、昔日の自助・共助の受け皿は、消えてしまってどこにも見当たらない。
 自助、共助、公助と新しい政権は口に乗せたが、それをアテにできるような実態は、見当たらない。介助や介護も、「共助」はなくなり、「自助」というのは、「外注に出す」ことにほかならない。政府も、自助や共助の実態が、ほぼ交換経済の市場に任せになっているのを、承知しているから、市場への刺激という文脈では政策とするけれども、コミュニティ性に基づいた自助・共助の「関係」を構築するイメージには、辿りつけない。
 「公助」があるようなイメージを持っているかもしれないが、今の行政の水準からすると、「公助」というのは最低限度の暮らし方も保障されない場に身を置くことを意味している。つまり「身を棄てる」に等しいと私は思っている。
 上記のような実態の社会に身を置いて暮らしていることを、コロナウィルスの蔓延が、図らずもあらわにして見せている。もう何年も逢っていない後輩のメールが、そんなことを考えさせてくれた。

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