mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

見てくれが良い――エリートは誤らない

2020-10-09 09:29:15 | 日記

 瀬戸内寂聴が「アベサンは見てくれが良かったからね」と言っていたと、カミサンが言う。どういう文脈でその言葉がつかわれたのかわからないが、見てくれの良さが7年8カ月という長期政権を支えたのだとすると、日本の有権者の国民性もその程度のものと言われているよな気もする。だが、アベサン自身は見てくれの良さと意識していなかったであろう。彼自身の才覚といつ知らず思い込み、それが彼の人格の骨格になるほど、文字通り骨の髄から自らに自信を持っていたと(彼の立ち居振る舞いを観ていて)私は思う。
 それと同様に、去年(2019年)4月に池袋で母子二人を轢き殺した自動車事故の運転当事者の裁判が始まり、新聞などにも彼の供述が公表されるようになったので思い当たる。工業技術院のエライサンを務めていたことが、事故後の逮捕の見送りなどにも現れたのじゃないかと世評に取り沙汰され、「上級国民」という言葉を生み出した事故車運転者は、「車に異常」として無罪を主張したと、紙面は批判的である。「反省してない」と批判するが、それとは別に、私はこの人はアベサンと同じだと思った。上級国民と呼ばれるエリートの典型を示しているからだ。
 状況証拠は、「車に異常」を示してはいない。ブレーキを踏んだ形跡はない。アクセルを踏み続けた形跡がある。動転してハンドルのコントロールが利かなくなっていたことが、状況の展開から示されている。にもかかわらずなぜ彼は、「車に異常があった」と言い張るのか。事故の結果、二人の母子を殺害したことと、車のコントロールが利かなかったこととは次元の異なるモンダイだからである。事故の原因は、技術的なモンダイ、事故の結果は偶然性のモンダイなのだ。その分節化が、事故総体をモンダイにしているときにも、なぜ(事故原因当事者の胸中において)分けられたままなのか。その結節点が、彼の「せかい」においては、毅然と分けられたままで、何処にも接合点をもたないからだ。
 接合点とは何か。普通私たちがこの事態の当事者であった場合、「私はブレーキを踏んだが、車が暴走した」と思っても、アクセルとブレーキを踏み間違ったんじゃないかと指摘されたら、ひょっとしたらそうかもしれないと(自分自身の思い込みに対する)反省が入り込む。そこには、自分が間違うことなんてしょっちゅうあるじゃないかと、日ごろ感じて生きているからである。それはもう人格と言っていいかもしれないくらい、身に沁みて世に恥をさらし、臍を噛みつつ切歯扼腕してきた己の貧しさであり、卑小さであったと反省しているからだ。
 だがエリートは、こうした反省をもたない。いつも自分の外にモンダイが生じ、外に原因があり、自分はその原因を究明・審判する責任当事者であり、いわばモンダイに対して「神」のような立場をとってきた。エリートは誤ってはならないし、誤らないのである。それが彼の人格をつくり、彼を取り巻く関係を構成し、「上級国民」の待遇をもたらしてきたのであった。審判者は、したがって、自らを省みるポイントをどこにも見出すことができないのである。
 まして彼は、工業技術院の院長という車に関しては一家言ある立場を生きてきた方だ。まさに自家薬籠中のモンダイ事案に、人生を掛けて培ってきた人格が総動員されていても、不思議はない。しかもそれが、彼だけの振る舞いではなく、エリートを上級国民として接遇する警察や検察の「かんけい」も動員されていたことが、今回の動きでわかる。もしこの当事者が中級国民か下級国民ならば、警察官が「何バカなことを言ってんだよ。アクセルとブレーキを踏み間違えたんだろ! 耄碌してたんだよ、お前は」と決めつけられ、調書がつくられておしまいだからである。それでも否認すれば、もうあたりまえのように逮捕拘束され、自供するまで釈放されないってことは、去年4月以降の交通事故を起した人々の処遇をみれば、一目瞭然である。
 つまりここには、「上級国民/エリート」という「見てくれがいい」ことに循循としたがう社会的風潮がしっかりと流れている。そこがまさに、モンダイなのだ。
 それを、「(二人も死亡しているのに)反省していない」という(マスメディアのとりあげる)次元で、取り扱っていいのか。技術的な原因究明に、人間要素を組み込んで、総合的に判断していく回路をつくりあげねばならないのではないか。「見てくれがいい」ことで世の中が通る。それが世の風潮ならば、それをもう一つ深めて、より人間要素を組み込むにふさわしい規範の回路を再構成する視線が、私たちの暮らしのなかに組み立てられなければならないのではないか。
 この事故当事者のことだけにかまけて、彼を非難して留飲を下げればいいわけではなかろう。

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袈裟丸山の秋

2020-10-09 07:38:09 | 日記

 さて、歩いたときに思い浮かんだことが先行してしまいました。
 袈裟丸山への登山口は、塔の沢登山口、折場登山口、郡界尾根登山口と、三つある。地理院地図にはバラ沢峠からのルートも記されているが、廃道になっている。折場登山口はわたらせ渓谷鉄道の沢入(そうり)駅近くから林道を23km入ったところにある。以前、郡界尾根から上り後袈裟丸山を経て折場登山口へ下るルートをとったことがある。じつは今回も2台の車を使って同じルートを歩こうと考えていたが、後袈裟丸山と前袈裟丸山のあいだの八反張のコルが崩落して通行禁止になっていることがわかった。また、そこへ通じる林道が修理するために通行禁止になっているので、折場登山口からの往復とすることとした。
 浦和駅で二人の参加者を乗せて、日光清滝へ向かう。沢入駅へは大間々から入るルートの方が近い。だが、北関東道を降りてから大間々までの一般道が混雑して、時間が読めない。日光周りだと、清滝から日足トンネルを抜ける道は、混雑することもない。合流時間の8時半に15分ほど余裕をもって辿りついた。すでにkw車は到着し、首を長くして待っていたようであった。折場登山口に広い駐車場には車が1台止まっており、私たちの後からもう1台がやって来た。
 8時50分、明るい日差しの中を歩き始める。いきなりの急な上り。山はたいていそうだから、先頭のkwrさんはペースを守りながら、ゆっくり歩度をすすめる。落葉広葉樹の濃淡取り混ぜた緑の中を、ゆっくりとすすむ。30分ほどで西側の渓とその向こうの袈裟丸山を望む側が草付きになって開けている地点に着く。今日辿る稜線が一望でき、その先の袈裟丸山は雲を被っている。その間に挟まる深い渓が紅葉を点在させて切れ落ち、一番深いところに滝が流れ落ちている。登り口から山頂までが一つの山だとすると、小丸山などの小ピークを含む袈裟丸山は、なんとも巨大な山体をもっているとみえる。私たちが上りはじめるころに到着した車から降りたペアが、後から登ってくる。60歳前後か。道を譲って先行してもらう。
 ところどころの黄色や赤の紅葉が目を慰めてくれるが、残念ながら陽ざしは西の方から押し寄せる雲に阻まれて、紅葉の鮮やかさを消してしまっている。1時間で賽の河原に着く。寝釈迦を通る塔の沢ルートとの合流点になる。このルートはよく上られているコースだが、ちょっと時間がかかる。以前人を案内したときには、すっかり草臥れて小丸山から引き返すことになった。
 足元はしっかりと踏み鳴らされ、長く親しまれた登山道の面影が残る。袈裟丸山の命名由来を弘法大師に求めているのは、いずこも同じという感じがするが、赤城の山神に邪魔されて弘法大師が袈裟衣を脱いで丸めておいたというのは、なんともおとぎ話めいて興ざめがする。賽の河原の石積みのことも、別の表示板に記している。黄色のカラマツとドウダンツツジの朱い色とが見事だ。
 しばらく稜線沿いの笹原とまだ緑緑したモミジや色の変わり始めたナナカマド、ツツジの紅葉をみながら軽快に歩を進める。小丸山1676mにもコースタイムの2時間で到着。ところどころの紅葉の見事さに先頭が立ち止まり、後の方から嘆声が漏れる。
 霧が巻いてくる。かまぼこ型の鉄製の避難小屋に降り立つ。ドアの鍵が外側からかかっている。声をかけノックをしてstさんがのぞき込む。中は板敷になり、断熱のシートを敷いてあるのか、居心地は悪くなさそうに見えた。stさんは「外から鍵を掛けられたら、どうするんだろう」と心配をしているのが、おかしい。別棟のトイレもある。
 ここから前袈裟丸山の山頂までが、今日二度目の急登。段差が大きい。両側の笹の丈が高く、埋もれそうになりながら登っていく。あと標高差130mのところでkwrさんは休みを取り、一息入れる。岩場もある。登るとき私たちが道を譲った若いペアが降りてくる。「やあ来ましたね。(山頂は)すぐですよ」と道を譲る。ランドマークになるようなトドマツが一本、霧の中に浮かぶ。そのすぐ先に袈裟丸山の山頂があった。12時到着。濃い霧の中。眺望も何もあったものではない。
 昼食にする。この先のルートを見に行くと、「前袈裟丸山から後袈裟丸山の間、八反張は風化が激しく危険ですので、通行を禁止します 東村」と標識が立てられている。標識自体も塗装が剥げかかっている。ふと思い出してメモを辿ってみると、2009年の10月20日に、郡界尾根から後袈裟丸山に上り八反張りのコルを通過して折場登山口縦走している。そのとき、郡界尾根の登山口に同じよう韙「東村」の掲示板があったと記載している。そうか、あの時の崩れそうなコルの砂地がそのまんまなのかもしれない、と思った。
 と、向こうから一人上がってくる。私たちと同じくらいの高齢者だ。そういえば折場登山口の駐車場に、1台車がおいてあった。この方か。後袈裟丸山に行ってきたという。コルの崩れそうなところのことより、その先の上り下りが笹につかまって登る急登だったと話す。「元気だね、後期高齢者は」とstさんが冷やかす。申年だよと、件の高齢者は言う。私は午年、kwrさんは未年。「なんだ同学年だね」と言葉を交わして、先に降りていった。山頂へ6人ほどのアラカンの男たちが上ってきて、急ににぎやかになった。霧が濃い雲になり、雨粒が混じるようになった。私たちは雨具を羽織って、下山を始める。12時38分。
 上からみると、笹原の中の紅葉が鮮やかに見える。林立するダケカンバの白色も彩になっている。40分で小丸山に戻る。往きの1時間に比して帰りが早すぎるほど早い。帰心矢の如しかと思う。雲が取れ、雨具は避難小屋を通過するときに脱いでいる。賽の河原も、コースタイムより10分も早く帰着した。14時26分、広い笹原の上部に出る。遠方の、南西の山並みが雲の下にみえる。雲は1600メートルほどの高さに広がって伸び、その下から西を見晴らすと晴れわたっているのであろう。赤城山へ連なるものだろうが、重畳たる山の重なりに見分けがつかない。
 折場登山口に着いたのは14時55分。行動時間は6時間5分。山頂で35分ほどとったから、5時間50分のコースタイムのところを、5時間半で歩いた計算になる。未年の先頭も、いや、なかなかの健脚といったところか。
 帰途は、kw車に先頭を頼んで、伊勢崎ICへ向かった。渡良瀬川沿いに走っていると雨になった。だんだん本格的な降りになり、大間々の街中に入ると、やはり車の渋滞はひどなった。伊勢崎iCから浦和ICまでは順調であったが、浦和も雨の中は皆さんゆっくり走るせいか、渋滞気味。ほぼ6時に駅に到着した。無事であったことが何より。家に帰ると、どうして連絡しないのよ、何かあったんじゃないかと心配したと、カミサンはご立腹。よく見ると、連絡したはずの私のスマホは、「機内モード」のままであった。

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