折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

もう一つの『三屋清左衛門』の世界

2007-10-10 | 映画・テレビ
                 
           ドラマ・『清左衛門残日録』のオープニング場面
           (NHKテレビ『清左衛門残日録』より)

       『日残リ昏ルルニ未ダ遠シ』

作家・藤沢周平が『老い』を迎える心境を活写した名文である。

齢を重ねてからもう一度読み返して見たいと思う『本』がある。
齢を重ねてからもう一度見てみたいと思う『映像』がある。

藤沢周平の『三屋清左衛門残日録』はさしずめその代表例であろうか。

『三屋清左衛門残日録』が上梓されたのは、平成元年9月、映像化されたのは平成5年4月であり、その時、小生はそれぞれ46歳、50歳であった。

その時の感想としては、原作も映像も共に『良かった』という印象が残っている。
しかし、定年までまだ10年余を残しており、『日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ』という言葉は、名文として記憶に残ったものの、その心境を理解するにはそれこそ『未ダ遠シ』の感があった。
もう少し年をとり、定年退職でもしたらじっくりと読み直したい、映像も見なおして見たいとその時から思っていた。

そして、隠居(定年退職)してから今年で丸4年。
そう思ったあの時から十有余年(本を読んだ時から18年、テレビで見た時から14年)、最近ようやく本を読み直し、映像を見直す機会を得た。

そのきっかけは、NHK・BS2での『三屋清左衛門残日録』の再放映であった。
久しく待ち望んでいたので、うれしくて、わくわくしながら、毎回録画し、今は原作と映像を同時進行で、先ずじっくりと原作を読み、しかる後に映像を見、そして両者の違いを比較するという贅沢な楽しみ方を楽しんでいる。

小説の映像化に際しては、原作のイメージと映像とのギャップがどうしても付いて回りがちで、見終わってがっかりすることが多い。
浅田次郎原作〖壬生義士伝〗の映画化は、そのがっかりした最たるものであったが、この『三屋清左衛門残日録』のテレビドラマ化でも藤沢周平の精緻な筆致で簡潔に描かれている物語の世界を映像でどう表現するのか、どう表現できるのか興味はこの一点に尽きるのであるが、この点に関しては当然のことながら製作する側も十分意識していて、文芸春秋臨時増刊号「藤沢周平のすべて」の座談会の席上でNHKのドラマ番組部チーフ・プロデューサー菅野高至さんと脚本家の竹山 洋さんがこんなことを言っている。


菅野 『清左衛門』は精緻な短編小説の積み重ねだから、読みやすくはあるけど中身は純文学なんです。だから企画が通った後、周りの人間たちに、金曜日の夜八時にこんな純文学をやれるのかとしきりに言われました。それでだんだんこっちも不安になってくるわけです。(〖出典:平成9年4月15日発行 文芸春秋四月臨時増刊号「藤沢周平のすべて」164ページより引用〗)

竹山 そもそも『清左衛門』は第一回から苦しんで苦しんで書いてたんです。勿論僕だって脚本家ですから、普通に書こうと思えば簡単に書けはする。だけど、『清左衛門』だけはそうはいかない。毎回、普通の何倍も苦しんで書いていました。(以下略)(前掲出典167ページ)

これを見ても脚本、演出そして出演者が藤沢周平と言う作家とその作品に対して等しく尊敬の念と熱い思いを抱いて立ち向かったことが十分にうかがえ、それが原作の味を損なうことなく見事な映像化をなしえた大きな要因の一つになっているのではないだろうか。

特に、配役陣は絶妙でイメージしていた作中の人物がそのままブラウン管の中にいるような錯覚すら覚える。それぞれがまさに「ハマリ役」というのも、稀有なことと言えるだろう。

配役陣に関しては、原作者の藤沢さんが菅野さん宛に出したはがきの中でこう評している。

(前略)配役では財津一郎が水を得た魚のような好演、また南果歩のキャラクターがとてもよく生きて、これは配役の妙ではないでしょうか。仲代達矢の清左衛門はさすがに存在感があり、この人の主役は正解、大あたりという気がしました。固い一方ではなくこちらもちょっと軽いみがあるのですが、財津の八方やぶれの軽るみとは違い、少し不器用なところがいいと思いました。(以下略)〖前掲出典164、165ページ〗


映画〖砂の器〗以来、久々に原作と肩を並べてもひけをとらない映像を見た思いである。

〖砂の器〗もそうだったが、このドラマにも、映像と言う表現方法の特質・可能性をとことん追い求めた成果が見事に結実されていた。

そこに、小説と違うもう一つの『三屋清左衛門残日録』の世界を見ることできるのである。


隠居した清左衛門の凛と背筋の伸びた生き様は、われわれ退職した者にとって一つの理想であり、憧れであるがこの境地には『未ダ遠シ』 である。

朝の散歩中でのこと

2007-10-06 | 日常生活
10月に入りサマー・タイムは終了、愛犬パールとの散歩のスタートはこれまでよりも2時間遅れの7時30分である。

スタートが今までより2時間も遅れると朝の散歩の風景も全く違った様相を呈する。
まず、車や人の通行量が比べ物にならないほど多くなる。また、当然のことながら散歩中に出会う人たちや犬たちの顔ぶれもがらっと違ったものとなる。

サマー・タイムの時に出会った人たちとは、ほとんど〖おはようございます〗と挨拶を交わしていたが、散歩時間が遅くなってこれまでと違う顔ぶれの人たちと挨拶を交わすのにはそれなりの勇気がいる。
朝が早いと気分もさわやかで自然と〖おはようございます〗と言う言葉が出てくるが、8時近くになってしまうとそういう気分にもなれず、ついつい黙ってすれ違ってしまうことが多い。(できる限り挨拶しようとしているのだが・・・・・)
また、この時間帯になると犬を散歩させている人もめっきりと少なくなる。


散歩も終わりに近づき、まもなく我が家だと言うところまで帰って来た時、一人のおじいさんが、パールを見て、〖お前さん、相変わらず元気だね〗と声をかけてきた。

以前マルチーズをつれて散歩していた人で、小柄で人懐っこく、いつもにこにこしていて、散歩の途中小生とパールを見かけると、マルチーズと一緒に近寄って来て、パールに〖お前さんは、いつも元気でいいな〗と声をかけてくれるのが常であった。

そう言えば、このところ犬を散歩させている姿を見ていない。

〖どうしました、わんちゃんは?〗

〖いやあ、あのわん公、死んじゃったんだよ〗

〖それは、それはお寂しいでしょう〗

〖寿命だったんだよ〗

その人は、そう言ってしばらくパールの頭をなでていた。

犬を連れていないおじいさんの散歩姿は、何とも所在なげで、頼りなげで、寂しげに見えた。
我が家のパールの散歩は、朝・夕の2回であるが、そのおじいさんはいつも愛犬と一緒にいる姿を何回も見かけたことがある。きっと、1日中犬と一緒に過ごしていたのに違いない。

胸を衝かれる思いで、いたたまれずに挨拶もそこそこにその場を離れた。

帰りの道すがら、今はパールがいるけど、もしも散歩の相手がいなくなってしまったら、と想像した時、あのおじいさんの寂しげな姿が我がことのように思えてきて、暗澹たる思いを禁じえなかった。

そして、〖犬と私の10の約束〗(川口 晴著・文芸春秋)の8番目の約束

私は十年くらいしか生きられません。だからできるだけ私と一緒にいてください

という言葉がリアリティを伴って迫ってきた。

中3日

2007-10-02 | ブログ
プロ野球もいよいよ終盤である。
どの選手も、長いペナントレースの終盤を迎えて疲労の極にある。

プロ野球の先発投手の登板間隔は、〖中5日〗である。

ピッチャーには5日間の休養が与えられ、この間に酷使した肩をはじめ肉体的、精神的な疲れをいやし、リフレッシュして次回の登板に備える。

小生のブログの投稿間隔は、今のところ〖中3日〗である。

ブログを始めた頃は、何回か分の原稿を書き溜めておく余裕もあり、3日あれば十分と思っていたが、150回以上も続けてくるとさすがに〖中3日〗ではきつくなってきた。以前のような、手持ちの原稿の余裕などあるはずもなく、〖やれやれ、ノルマ達成〗と一安心していると3日ぐらいすぐに経ってしまう。
せかされるまま、気ばかりあせるが一向に書くべきテーマが思いつかないうちに次の投稿日が迫ってくる。かなりのプレッシャーである。

プロ野球選手には、オフ・シーズンがあり、その期間は重圧感から開放されるが、ブログはエンドレスである。
最近は精神的な疲労も溜まりがちで、中3日ではとてもリフレッシュというわけにはいかない。今になって、とんでもないことを始めてしまったと、ついつい弱音をはくことも一再ならずである。


ブログを書く際、今回はこのことをテーマに書くことにしようと予め考えて書くことも勿論あるが、それよりもどちらかと言うと、その日、その時、その場でふと心に浮かんだとりとめのないことをブログにまとめる場合が結構多い。(だから、メモを取る手帳が不可欠なのである。)

その場合、とりとめのない思いが瞬時に頭の中で一つの形となり、それがほぼ完全な形で文章化される時もあれば、とりとめないがゆえにいざ文章にしようとしても、なかなかまとまらずに四苦八苦した末どうにか完成にこぎつける時もある。また、とりとめのないまま形をなさずに終わってしまう場合も勿論多い。

野球のピッチャーに例えれば、第1のケースは胸のすくピッチングを展開し、〖完投・完封〗気分は最高、ご満悦の図である。
第2のケースは、何とか完投し、結果は残せたものの、不本意な内容に不満たらたらの図である。
そして、第3のケースは、四死球の連発で自滅。早々の降板に憮然たる図ということになろうか。

つい最近の例で言えば、9月28日付ブログ〖大人の童話〗は、読み終わってすぐにモチーフが浮かび、30分ぐらいで出来上がっていた。9月24日付ブログ〖マルチ・タレント〗は、思うように文章がまとまらずに、それこそ四苦八苦、何回も消したり書いたりした末、投稿日当日の夕方にやっと原稿が出来上がり、かろうじて中3日を死守できたしろものである。

ゴルフでも、ナイス・ショット一発の感触が忘れられず、一振りの快感を求めて(1ラウンドで1,2回こういうショットが出るから始末が悪いのだ)下手なゴルフを続けているゴルファーが多いようであるが、文章においてもしかり。いいヒラメキがあって、それを自分なりに表現できたときの満足感、充足感は忘れがたく、やみ付きになってしまうものである。

この文章などはさしずめ、何も思いつかぬまま、せかされるままに書いた〖窮余の一策〗ならぬ〖窮余の一作である。